名前大竹寛(オオタケカン)
生年月日1983年5月21日
日本
出身埼玉県八潮市
プロフィール小2の時、南川崎ゴールデンアローに入団し、野球を始める。八潮大原中では軟式野球部でプレー。浦和学院高に進学し、右腕エースとして活躍する。

2001年11月ドラフト会議では広島に1巡目で指名される。開幕二軍スタートとなり、走り込みを中心とした体力強化につとめる。2年目に終わりにプロ初勝利。3年目は途中からリリーフに周り6勝17セーブ。

2005年からはローテーション投手として、5年連続規定投球回数をクリア。2010年は肩の故障、2011年は死球骨折などの影響で2年合計9試合2勝と低迷。2012年、キャリアハイの11勝、防御率2.36の成績でカムバック賞受賞。2013年も自身初となる2年連続二桁勝利をマーク。

2013年オフ、FA権を行使して巨人へ移籍。2014年は9勝6敗と検討するも、以後3勝、6勝と低迷が続いている。

通算成績は296試合、92勝94敗17S、1ホールド、防御率3.73、1,544回2/3、1,091奪三振(2016年まで)。カムバック賞1回。浦和学院高、183センチ、94キロ。右投右打

浦和学院時代、甲子園マウンド未経験ながら、広島1巡目指名

大竹寛は、埼玉県八潮市で生まれ、小学2年生から南川崎ゴールデンアロースポーツ少年団で野球を始めます。地元の八潮市立大原中学を卒業後、浦和学院へ進学しました。下半身を中心とした美しいフォームで実力を上げ、自身2年生夏には1学年上の坂元弥太郎とエースの座を争うまでになります。しかし、最終的には坂元がエースとして県大会をほぼ一人で投げぬき、甲子園出場を決めました。本戦でも坂元が2試合連続二桁奪三振と、大竹は1イニングたりとも聖地のマウンドを踏むことはできませんでした。

2年秋からエースとなり、連続での甲子園出場を目指しましたが、秋は初戦敗退しセンバツ出場の可能性が消えます。最後の夏は、味方のエラーで逆転負けしベスト8止まりでした。同年ドラフトでは甲子園で158キロをマークした寺原隼人が高校生No.1投手として大注目されました。それでも関東No.1と称されていた大竹も、アジアAAA野球選手権日本代表に選出されるほどの逸材で、同様に注目されます。4球団が寺原に指名が集中する中、大竹を高く評価した広島東洋カープが単独での1位指名に成功しました。

ファームでの走り込みでグレードアップし、2年目に初勝利

プロ1年目の大竹寛は、広島先発投手陣の頭数が揃っていた事もあって、ファームで過ごすことになりました。さらに、いきなり右肩を痛めて投げることすらできなくなります。焦る気持ちを抑え、ひたすら走りこむことで下半身がさらに強化され、安定感のあるフォームを手に入れました。高校卒業時よりも球速を10キロもアップさせ、スライダーにも磨きがかかるなど実りの多いルーキーイヤーを過ごしました。

2003年も時間をかけてじっくり育成の時間を過ごしていましたが、一軍投手陣が軒並み不調に陥り、シーズン終盤の9月下旬、突然一軍で投げる機会が与えられます。横浜ベイスターズ戦に初登板初先発すると、初回に5失点というプロの洗礼を浴びせられました。しかし、10月に2度目の先発チャンスが転がり込むと、6回1失点(自責点0)に抑えプロ初勝利を手にします。ペナントレース終わりの時期でしたが、かなりボロボロだった投手陣に一筋の光を差し込みました。

先発ローテーション投手に定着するも、不安定なピッチングが続く

2004年、開幕ローテーション投手の6番手としてシーズンスタートします。自身2戦目に初勝利し、続く3戦目には初完投勝利と順調に階段を登っていました。しかし、4戦目にKOされると、その後は人材が薄かったリリーフへ配置転向されます。そして5月末には、不調だった永川勝浩に代わって、クローザーに抜擢されました。プロ入り後球速をあげたストレートとキレのいい変化球で慣れないポジションを務めます。同年は43試合に登板して、6勝5敗17セーブ、防御率3.18と好成績を残しました。

2005年、本来の先発投手としてリーグ最多の28試合に先発します。自身初の二桁10勝をマークし、161三振と成長の後を見せましたが、先発で貯金を稼げたのはエース黒田博樹のみとなりチームは最下位に沈みました。翌年もローテーション投手としてフルシーズンを過ごしましたが、6勝13敗と大きく負け越し、ともにリーグワーストの敗戦数、被本塁打(25本)と伸び悩みの時期を過ごしました。

新球シュートを取得し、打たせて取るピッチングスタイルに変更

入団以降、球速があがり本格派右腕として投げていた大竹寛でしたが、モデルチェンジに挑みます。これまでの三振を狙うピッチングではなく、打たせてアウトを取る方向を模索しました。そして、新球シュートを覚えてシーズンに挑みます。9勝10敗と黒星先行は前年まで同様でしたが、防御率は3点台に戻り、プロ初完封も達成しました。

さらにチェンジアップも修得した2009年、10勝8敗と初めて貯金も作り、防御率もチームトップでリーグ5位の2.81と安定感を増しました。2008年からは2年連続でオールスターに選出されるなど、リーグを代表する投手の一人に名乗りを上げました。

ほぼ2年間働けない時期を過ごすも、完全復活してカムバック賞

さらに上昇カーブを描くはずが、2年間大きな挫折を味わいます。2010年、怪我で開幕に出遅れると、シーズン中に別の怪我を負いわずか3試合の登板で1勝に終わりました。さらに2011年、約1年ぶりに復帰するも、打球を右手に受けて小指を粉砕骨折します。シーズン終わりの10月に復帰し勝利投手となりましたが、この2年は規定投球回数をクリアできず、2勝に終わりました。

2012年、ほぼ2年間投げられなかった思いをマウンドで爆発させます。開幕からローテーション投手に定着し、6連勝をマークするなど3年ぶりにオールスターにも出場しました。自身キャリアハイの11勝5敗、防御率2.36(リーグ6位)と見事な復活を果たし、カムバック賞を受賞します。さらに翌2013年も、2年連続二桁勝利10勝をマークするなど完全復活を印象付けました。

FAで巨人へ移籍後は、二桁勝利を達成できないシーズンが続く

2013年は、大竹寛が広島に入団して初のAクラス3位を確保しました。しかし、地元関東でのプレーを強く希望し、同年オフに国内FA権を行使します。そして巨人との契約に合意し、広島のユニフォームを脱ぎました。

FA移籍は注目される上、人気球団巨人となればその度合いはさらに強まります。巨人にFAで移籍した投手も当時12名いましたが、二桁勝利を達成したのは、工藤公康と杉内俊哉の二人だけでした。3人目に続こうと、開幕先発ローテーション投手に食い込みます。移籍後初登板初勝利を飾り、4月には広島にも勝利し全球団勝利を達成しました。特に中日戦には滅法強く6勝を上げて9勝まで積み上げます。しかしここで右肩を痛めて戦線離脱し、最も大事なプレーオフでも投げる機会は訪れませんでした。その後は厚いレギュラーの壁に遮られ、2015年3勝、2016年6勝と、FA移籍3年間は二桁勝利の目標を達成できずに終わっています。


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