荒川博について

名前 荒川博
生年月日 1930年8月6日
日本
出身 東京都台東区
プロフィール 1953〜57年毎日、58年大毎と改称、61年まで同チームに所属、ポジションは外野手。引退後62年巨人の打撃コーチとなり、成績不振の王貞治に1本足打法を指導したことで知られる。その後73年ヤクルトコーチを経て74年監督に就任。この年3位と健闘、シーズン終了後、大杉勝男、福富邦夫を獲得するなど大型トレードを敢行した。76年5月辞任、のちフジテレビ解説者などを務めた

わずか9年で幕を閉じた選手成績

荒川博が生まれたのは東京都台東区。早くから野球を始めた荒川は高校も野球の名門校の早稲田実業へ進学し、大学も早稲田大学へ進学します。野球選手屈指のインテリだった荒川ですが、当時の早稲田大学でも実力者。同期の岩本尭、後輩の広岡達郎とともに六大学リーグで活躍しました。

そして荒川がプロ入りしたのは53年。当時東京に本拠地を置いていた毎日オリオンズでした。地元チームに所属した荒川はルーキーイヤーの53年からレギュラーで起用されて活躍。いきなりオールスターゲームに出場するなど一躍スター選手になりました。1年目は99試合に出場して打率は3割1分5厘。期待通りの成績を残しました。

安定してヒットを放つ荒川の打順は主に2番打者。そのため本塁打はあまり出ませんでしたが、それでも2年目の54年には自信キャリアハイとなる5本塁打をマーク。その後も安定した成績を残しましたが、毎日オリオンズの強力打線の中ではいたって地味な存在。そのため、「打者・荒川博」はわずか9年でキャリアに幕を閉じます。60年にチームはリーグ優勝を果たしますが、その時の成績はわずか9分7厘という散々たるものでした。

眠れる主砲・王貞治を呼び起こす

選手としてはパッとした成績ではなかった荒川博ですが、チームにおける荒川の価値はとても高かったと知られています。荒川のコーチとしての最初のヒットは早稲田実業の後輩でチームメイトになった榎本喜八でした。

当時の榎本はまじめすぎるほどまじめな男と称され、打てなかったときにネガティブに考えすぎてプレッシャーに押されてしまうことがしばしばありましたが、荒川との出会いでそれを克服しました。そもそも荒川は榎本のプロ入りの際に口利きをしたこともあり、毎日の強力打線のキーパーソンともいえる存在でした。

その荒川に目をつけていたのが、巨人。荒川は現役を引退した翌年の62年に巨人に打撃コーチとして招聘されます。生え抜き選手の雇用が多い巨人としては異例の人事でしたが、それだけ荒川に対しての期待が大きかったと言われています。そして荒川に任されたのは悩める長距離砲、王貞治の指導です。

実は荒川は王が中学時代に出会った経験があり、王を打者にしたキッカケを持つ人物。その後王が早稲田実業で活躍し、センバツ優勝投手になる道筋を作りました。

荒川が巨人で再会したころの王は打撃スランプに陥っていただけでなく、気持ちも腐りかけていたといいます。打てないから練習に身が入らない、練習をしないから打てないという悪循環に陥っていたこの頃の王は、夜になるとクラブに出かけて夜遊びをしていたと言われています。荒川は王の意識改革、そして打撃フォーム改造を任されます。

その中で生まれたのが一本足打法。右足を高く上げて構える王のフォームはたちまち話題になり、王もまたこのフォームで本塁打を量産しました。64年には当時のシーズン最多本塁打となる55本を放つ大活躍を見せ、荒川の打撃指導の正しさが実証されました。

荒川のキャリアを狂わせた“荒川事件”

偉大なる本塁打王、王貞治を育て上げた荒川博。巨人では他にも土井正三、黒江透修、高田繁、末次利光らを育てて、未だ不滅の大記録である、巨人のV9を支えます。

荒川の打撃指導はとにかく熱血で知られ、その最たる例が真剣を使っての指導。真剣を使ってのスイング練習は精神面の鍛錬につながり、中でも王の指導は練習というよりも稽古と言えるもの。精神的な修行も荒川のお手の物でした。

その一方で荒川の気性の激しさは有名で、68年には教え子の王が危険球を投じられたことに腹を立て、相手投手のジーン・バッキーに掴みかかりました。バッキーはこの時荒川を利き腕の右腕で殴ったことで指を骨折するというアクシデントもあったことで知られています。

巨人には欠かせない打撃コーチになっていた荒川ですが、69年のドラフト前にその荒川が端を発したドラフト事件が起きました。この年のドラフト最大の目玉となっていたのが荒川堯。荒川が巨人の長野遠征時に打撃指導をした際に惚れこみ、養子縁組を結んでまで自宅に住まわせていた逸材でした。アマチュア時代から荒川の打撃指導を受けたことで堯はスラッガーとして成長し、早稲田大学始まって以来のスラッガーとして六大学リーグで圧倒的な成績を残していました。

その堯のドラフト、希望球団はもちろん、義理の父がいる荒川の巨人と慣れ親しんだ神宮球場を本拠地としたヤクルトでした。しかし、ドラフト会議の結果、荒川を獲得したのは大洋ホエールズ。在京のセリーグではありますが、堯の希望から離れたいたことで入団拒否。そのまま年を開けて70年の1月を迎えますが、堯が大洋ファンの暴漢に殴られるという事件が発生。そのためか、翌70年のドラフト会議直前に堯は大洋へ入団し、間もなくヤクルトへトレードされるという野球協約を無視する違反行為を行いました。この結果、荒川はけじめをつける意味で巨人を退団します。

ヤクルトの監督として13年ぶりのAクラス入り

巨人退団後、荒川博はしばらくプロ野球界から離れますが、73年にヤクルトアトムズの打撃コーチとして復帰。養子である荒川堯の指導もしました。残念ながら堯はこの年から視力の急速な低下があり、打撃成績は低迷しますが、荒川自身は翌74年から監督に就任。チームを統括する立場になりました。

自身初の監督となった74年、荒川はヤクルトを13年ぶりのAクラス入りとなる3位に浮上させます。更なる打撃強化を狙い、荒川はシーズンオフにトレードで大杉勝男を獲得しました。しかし、この年以降ヤクルトはまたもBクラスに落ちてしまい、76年に荒川はシーズン途中で辞任してしまいました。

しかし、荒川が獲得した大杉勝男は78年のヤクルト初優勝の主力打者として活躍するなど、チームの土台を作ったことで評価されています。


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