安仁屋宗八について

名前 安仁屋宗八
生年月日 1944年8月17日
日本
出身 沖縄県那覇市
プロフィール 琉球煙草を経て、1964年広島に入団。沖縄県出身者初のプロ入り選手として注目を浴びる。1975年阪神に移籍、同年防御率1位とカムバック賞を獲得。通算119勝124敗22S。

引退後は広島の投手コーチを経て、94年二軍監督に就任。97年シーズン終了後、退任。のち中国放送の野球解説者となる。

沖縄県民初のプロ野球選手誕生!

沖縄出身の安仁屋宗八が野球に興味を持ちだしたのは少年時代からでした。当時の沖縄はアメリカの占領下で甲子園出場さえもままならないような状況でしたが、安仁屋は当時の巨人のエース投手、藤田元司に憧れて野球を始めました。

サイドスローから小気味いい変化球で打たせて取るタイプの投手として沖縄高校のエースになった安仁屋は高校3年生になった62年、南九州大会で沖縄代表として出場。エースとして宮崎大淀高校を下したことで甲子園への出場権を得ました。ちなみに沖縄が実力で甲子園の切符をつかんだのはこの時が初めてのこと。それだけに安仁屋の存在はこの時点でレジェンドともいえるものになっていました。

迎えた甲子園大会、安仁屋率いる沖縄高校は善戦しますが、惜しくも初戦敗退します。ちなみにこの時に敗れたのが広島の名門校である広陵高校でした。こんなところからも安仁屋と広島との縁を感じさせます。

高校卒業後、安仁屋は地元の企業である琉球煙草という会社に就職し、社会人選手として野球を続けることになりました。安仁屋は63年の都市対抗野球大会で大分鉄道管理局の補強選手として参加し、沖縄出身者として初めての都市対抗野球大会へ出場しました。後楽園球場のグラウンドに立ちました。

これらの活躍がキッカケとなり、安仁屋はプロからも注目される存在になりました。そして、安仁屋に目をつけていたのが沖縄に近いエリアにあった広島カープ。64年、安仁屋は20歳にして広島カープへと入団しました。

シュートを武器に、チーム初のAクラス入りに貢献

沖縄県民初のプロ野球選手となった安仁屋宗八。1年目からさっそく安仁屋は一軍に定着し、中継ぎ投手として起用されます。安仁屋が本来のポジションである先発投手として起用されたのは5月の国鉄スワローズ戦でした。5回を投げ切った安仁屋ですが、4失点を浴びて降板し、先発デビューはほろ苦いものとなりました。

しかし、6月14日、二度目の先発となった巨人戦で安仁屋は見事に9回1失点完投で初勝利。安仁屋の快挙は地元沖縄では大ニュースとなり、当日はラジオでライブ中継、そして那覇市内の電気屋さんの前にはラジオに耳を傾ける通行人で黒山の人だかりができました。さらに翌日の新聞では一面で安仁屋の初勝利を大きくたたえました。当時はアメリカの占領下だった沖縄はテレビ中継がなく、2日後にビデオで流れるだけでしたが、それでも安仁屋の快投を見ようと、琉球放送は2日間にわたり2度放映し、どちらも見たという沖縄県民がほとんどでした。

そんな熱狂的な応援が安仁屋の支えになっていましたが、同時にプレッシャーになっていたことも否めません。チームも初の沖縄出身選手として安仁屋を大きく売り出していたため、やや実力不足だった時期でも安仁屋を積極的に起用、そのため安仁屋はプロ入り4年目までに28勝を挙げましたが、負け数はおよそ倍の51。サイドスローからの変化球に苦しむ打者が多い一方でチーム状況のために負け越すこともままありました。

安仁屋が変わったのは5年目の68年。この年に監督に就任した根本陸夫との出会いでした。安仁屋の得意玉であるシュートをもっと有効に活用することを指示した根本の教えによって安仁屋の才能は開花。打たせて取るピッチングで安仁屋はこの年、自身初となる2桁勝利を挙げ、外木場義郎とともにエースとして君臨。チーム史上初となるAクラス入りに大きく貢献。その後は69年、70年も10勝を挙げましたが、この70年オフ、安仁屋は痛風を患ってしまいました。元来の酒好きが災いした影響ですが、この痛風のために安仁屋は低迷するようになり、71年からはまた勝ち星が1桁に落ち着くというスランプを味わいました。

阪神で復活も、酒でまたも大病を

節目の30歳となる74年、安仁屋宗八は復活にかけていました。しかし、キャンプ中に安仁屋は打撃コーチを務めていたジョー・ルーツと衝突。この年は33試合に登板しましたが、ほとんどが中継ぎ起用。4勝4敗とまずまずの成績を収めましたが、翌75年からはそのルーツが監督として指揮することが決まっていました。自身に歯向かう選手はいらないとばかりに、ルーツは監督就任直後、安仁屋を阪神タイガースへと放出します。

しかし、環境が変わったことが安仁屋にとってはよかったのか、この75年シーズン、安仁屋は中継ぎエースとして復活。打たせて取るピッチングで打者を手玉に取った安仁屋は中継ぎ投手ながら12勝を挙げて規定投球回に到達。防御率も1.91とリーグ1位の成績を残し、最優秀防御率とカムバック賞を獲得しました。

翌76年も10勝10セーブという好成績を残した安仁屋ですが、77年からは成績が徐々に悪くなりました。79年のオフには古巣広島へと金銭トレードで移籍します。

かつての所属チームに帰ってきたことで安心したのか、安仁屋はまたも酒浸りに。今度は痛風にはなりませんでしたが、80年のシーズン開幕前に十二指腸潰瘍を患い、大事なシーズンを棒に振ってしまいます。広島はこの年優勝しましたが、安仁屋の登板数はわずか2試合でした。しかし、チームの功労者にも登板機会をという形で日本シリーズの第1戦にリリーフ登板。結果的にこの試合が安仁屋にとって最初で最後の日本シリーズとなりました。

翌81年、37歳になった安仁屋はこの年を限りに現役を引退。ちなみに通算119勝は自身が憧れていた藤田元司とくしくも同数という記録を持っています。

現役引退後、投手コーチとしてチームを支える

現役を引退した安仁屋宗八は翌82年から広島の投手コーチに就任します。二軍と一軍を行き来していましたが、この間に安仁屋が育てたとされる投手が津田恒実、川口和久と後の広島を支えた好投手ばかりでした。そしてこの頃に広島は黄金期を迎え、安仁屋は一軍投手コーチとして、84年、86年、91年のリーグ優勝に大きく貢献しました。二軍監督を務めた97年オフを最後にチームを離れるまでなんと15年間も広島首脳陣に入閣していました。

その後、安仁屋は評論家として7年間勤めあげた後に05年にコーチとして復帰。低迷するチームに活を入れるための入閣で、安仁屋もかつての強力投手陣を作ろうとキャンプ時に投手全員に先発としての調整を命じ、2500球もの投げ込みを敢行。これで黒田博樹、大竹寛は成長を遂げましたが、ほとんどの選手は投げ込み過ぎがたたってけが人続出。責任を取る形で安仁屋はこの年限りでチームを退団しています。

現在の安仁屋は評論家活動をつづけながら、広島カープを愛するファンのような存在になっています。シーズン開幕前の勝敗予想で毎年のようにポジティブな勝利数を計算する姿は愛らしく、広島ファンにとって欠かせない人物になりました。

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