新井宏昌について

名前 新井宏昌
生年月日 1952年4月26日
日本
出身 大阪府大阪市
プロフィール 在日韓国人3世。PL学園では甲子園準優勝。法政大学を経て、1975年ドラフト2位で南海に入団。79、82年打率部門でパリーグ2位。86年近鉄に移籍し、87年パリーグ首位打者を獲得。

1992年史上26人目の2000本安打を達成。同年引退。通算18年、2038安打、88本塁打、680打点、打率.291。ベストナイン3回。

野球解説者を経て、1994年からオリックス打撃コーチに就任、イチローの打撃コーチとして有名になる。2001年退団。

PL学園→法政大学を渡った野球エリート

打撃コーチとして歴史に名を遺す新井宏昌ですが、自身もまた打撃成績に優れたエリート選手でした。大阪府出身の新井は中学時代から名を馳せていて、高校はPL学園へ進学。今でこそ、甲子園史上最高の名門校の一つとして知られるPL学園ですが、新井が進学した当時はまだ無名の高校。しかし、新井の世代からPL学園は強豪チームに替わっていきました。言うなれば新井たちが常勝PL学園の基盤を作ったといっても過言ではありません。

新井が入学した時期のPL学園にいたメンバーは新美敏、田代克業らの好投手が揃った世代。新井はこのチームの主将に任命され、3年生になった70年の夏の甲子園大会でPL学園を初の決勝進出に導きました。結果は原貢監督が率いる東海大相模相手に敗れましたが、新井自身、この大会では本塁打を打つなど、一大会で12安打を放つという当時の大会記録を樹立しました。この勢いに乗じるような形でこの年の秋に行われた岩手国体で見事に優勝。PL学園の強さをアピールしました。

これだけ打った新井を当然、プロが見逃すわけがなく、この年のドラフト会議で新井は近鉄バファローズに9位指名を受けます。しかし、新井自身は「プロのスカウトがあいさつに来た覚えがない」という理由で指名を断ります。当時のプロ野球には入団希望届というシステムがなかったためにこうした不意打ちのような指名が頻発。挨拶なしの下位指名は新井も気分を害したことでしょう。

そのため新井はスポーツ推薦で法政大学へ進学。甲子園から神宮の六大学リーグへと舞台を移しましたが、新井は在学中に2度の優勝を経験。4年生になった74年にはこの年に入学してきた江川卓とチームメイトになり、秋季リーグで優勝を果たしました。

シュアなバッティングで南海の主力選手に

大学4年時、新井宏昌はまたもドラフトの季節を迎えます。しかし、当時の新井は体の線が細く、プロのスカウトたちは揃ってノーマークでしたが、そんな新井に着目したのが野村克也。当時南海ホークスのプレイングマネージャーを務めていた野村は新井のバッティングセンスに着目し、74年のドラフト会議でスカウトたちの反対を押し切ってまで新井を2位指名。この野村の評価を意気に感じた新井は高校時代とは異なり、入団を決意します。

新井のバッティングセンスの高さはプロの中でも特筆もので、1年目から一軍の試合に出場。50試合で打率3割3厘をマーク。外野の準レギュラーとして起用されました。そして2年目の76年からは完全にレギュラーに定着。しかし、身体の線の細さからくる体力不足がたたり、新井は3年目には打率2割2分7厘、野村が去った4年目の78年は2割5分3厘と低迷します。後ろ盾の野村が退団しただけに、この成績ではレギュラーから外される危機を迎えました。

しかし、身体が慣れてきたのか、5年目の79年には打率3割5分8厘のハイアベレージを記録。この年は阪急ブレーブスの加藤英司が新井をしのぐ打率を記録しただけに打率はリーグ2位に終わりましたが、それでもこれだけの打率を記録できたことで、チームを追われた野村の評価が正しかったことが実証されます。

新井はその後も南海で外野のレギュラーを張り続け、81年~82年には2年連続で打率3割を記録。中でも81年は3塁打でリーグトップに輝くなど、俊足好打、さらに犠打もコンスタントに稼ぐため、地味ながらもいい打者としてチームから重宝されました。

現役晩年の移籍で通算2000本安打&初タイトル獲得

南海の選手として11年のキャリアを誇った新井宏昌。つなぎ役として活躍をしていた新井ですが、85年当時で新井は33歳。安打数も83年の139本をピークに下降し続け、85年時点では5年ぶりに100安打を割る85本、打率も2割6分2厘になっていました。

加えて南海は当時、若手選手の台頭が目白押しだったことで新井はチームから不要になってきていました。そのため、新井は85年のオフに近鉄バファローズへトレードで移籍することになりました。

34歳で迎える新天地、新井は同じ大阪をフランチャイズにしていた近鉄へ移籍して復活します。移籍初年度の86年は自身2度目となる全試合出場を果たすとキャリアハイとなる148安打を放ち、4年ぶりにベストナインに選出されます。

そして87年、新井は35歳にしてキャリアハイのシーズンを迎えます。開幕から好調だった新井はこの年、自身初のオールスターゲームへ選出。さらに前年放った安打数148を軽々と越えて184安打を放ち最多安打のタイトルを獲得します。そして打率は3割6分6厘をマークして、79年に取り逃した首位打者のタイトルを獲得しました。

その後近鉄の主力打者として息を吹き返した新井は92年まで近鉄に在籍し、87年以降も3回オールスターゲームに選出。89年には自身初のリーグ優勝を経験し、結果的に最初で最後となった日本シリーズに出場した際にはシリーズ通算で23打数9安打の3割9分1厘で敢闘賞を受賞しました。

92年、40歳になった新井はこの年を限りに現役を引退。同年に通算2000本安打を放って名球界入りを果たしましたが、通算本塁打は88本。100本塁打未満の名球会入り選手は新井が史上初のケースとなりました。

イチローのひとり立ち、ダイハード打線の育成に力を貸す!

現役引退後、新井は93年から解説者へ転身しますが、近鉄時代に仕えた仰木彬に請われる形で94年、オリックスブルーウェーブの打撃コーチに就任します。新井の卓越した打撃理論を若手選手に伝授してほしいというのが仰木の狙いでしたが、その中にはイチローへの指導が含まれていました。前監督の土井正三時代にはあまり起用されなかったイチローですが、二軍では好打を連発していました。

そんな20歳の若手選手の育成を新井は任されましたが、イチローの代名詞である振り子打法を奨励し、熱心に指導していきます。さらにイチローの当時の登録名「鈴木」からカタカナの「イチロー」へと変えることをアドバイスしたのも新井の功績として知られています。

その後のイチローの活躍は言うまでもなく、新井自身もオリックスの95~96年のパリーグ優勝、96年には日本一も達成します。

オリックスの打撃コーチを01年まで務めた新井は1年間の解説者生活を経て03年から福岡ダイエーホークスの打撃コーチに就任。この年のダイエーはシーズン開始目前で主砲の小久保裕紀が故障し戦線を離脱してしまいましたが、新井は川崎宗則を抜擢。すると川崎は小久保が抜けたサードに定着。城島健司、井口資仁、松中信彦、バルデスらが形成する強力打線のつなぎ役としてブレイクしました。

そしてダイエー打線はパリーグの脅威となり、いつしか「ダイハード打線」と称され、今もプロ野球史上最強打線の一つとして称されています。

現在の新井は解説者になっていますが、最近の新井のヒットと言えば13年から2年間務めた広島打撃コーチ時代。現在の広島の主力選手である丸佳浩、菊池涼介らの育成に力を貸したことでも知られています。


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