飯山裕志について
名前 | 飯山裕志 |
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生年月日 | 1979年7月13日 |
国 | 日本 |
出身 | 鹿児島県いちき串木野市 |
プロフィール | 高3の春にはオール鹿児島のメンバーに選ばれ、日中親善試合に出場。平成10年ドラフト4位で日本ハムに入団。178センチ、71キロ、右投右打
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ショートの守備で日本ハムスカウトに注目される
現在、北海道日本ハムファイターズの生き字引的な存在になっている飯山裕志ですが、生まれたのは北海道とは真逆といえる鹿児島県。野球を始めた当時から器用だった飯山はすぐに頭角を現し、上級生に交じってレギュラーに入るほどの選手でした。鹿児島実業高校の系列校であるれいめい高校に進学したこともあり、学生時代は甲子園大会には無縁の生活でした。しかし飯山の野球センスはこの頃から高く、高校3年時にはオール鹿児島のメンバーに選出され、さらに日中親善試合の出場も経験しました。
当時の飯山のポジションはショート。打撃面はともかくとして堅実な守備が評価されていました。そして、飯山の守備力の高さに目を付けたのが上田利治監督率いる日本ハムファイターズ。97年のドラフト会議で飯山は日本ハムに4位指名を受けて入団します。
ちなみに飯山と同じドラフト同期生となったのは小田智之、古城茂幸ら。内野手でもユーティリティープレーヤーとして活躍した選手が多いのが特徴的でした。
大型ショートとして期待も、一軍には足踏み続き
飯山裕志が入団した直後の日本ハムファイターズと言えば、「ビッグバン打線」と呼ばれた打撃力が魅力的なチームでしたが、一方で守備面が今一つでした。特に内野守備はファースト西浦拓一or落合博満、サード片岡篤史と両コーナーに不安があり、二遊間は田中幸雄と金子誠、そして奈良原浩が守っているという状態。田中も奈良原もベテランの域に達してきて、ショートは手薄になりつつある状態だっただけに、当時ショートを守っていた飯山にもチャンスが大きかったと言えます。
チームも飯山を将来のレギュラーに起用したいという思いが強かったからか、1年目から飯山は二軍のレギュラーとして積極的に起用されました。しかし、日本ハムの当時のチーム作りは打って打って打ちまくるという打線がウリで、2番打者に小笠原道大が起用されるなど守備を二の次に置いた編成でした。
そのため、打撃に難のあった飯山はなかなか一軍に上がることができず、自身初の一軍出場を果たしたのはプロ入り4年目の01年でした。しかし、この年はわずか7試合の出場にとどまり、翌02年は一軍出場すらありませんでした。
プロ入り6年目の03年、飯山の打撃に光が見えました。この年の飯山の二軍成績は打率3割2分8厘、11本塁打、長打率5割7分8厘という好成績を記録。打者が一軍で通用する基準の一つとして使われる長打率が4割を悠々超えた打撃成績で2年ぶりの一軍出場を果たしました。
しかし、この年の飯山の出場はわずか4試合のみでした。新監督のトレイ・ヒルマンのアンテナにあまり引っかからなかったのか、翌04年、北海道移転後最初のシーズンに至ってはまたも一軍出場なしで終わりました。
念願の一軍定着。日本一にも貢献
プロ入り7年で一軍通算出場数はわずか11。打席はわずか4打席しか回ってきていなかった飯山裕志。すでに25歳を超えていた飯山は戦力外通告一歩手前まで追い込まれましたが05年、ついにチャンスをつかみます。キャンプ中から好調だった飯山はこの年、プロ入り8年目にして自身初となる開幕一軍の切符をつかみます。今までなら数試合のみでまたも二軍落ちとなっていた飯山ですが、この年は奮起して42試合に出場。自身初となるヒット、そして打点もこの年に挙げました。
それまで数試合にしか出場できなかった飯山が重宝された理由として挙がったのが守備でした。前年までは一軍で三遊間を守ることがメインでしたが、この年はセカンドも外野も守る機会が増えました。守備の幅を広げたことで守備力に難のある選手が多いチーム事情にマッチし、さらに球場も広い札幌ドームに替わったことも守備力のある飯山には追い風が吹きました。
そして06年、とうとう飯山が台頭します。この年はサードのレギュラーだった木元邦之が開幕前に負傷したことで飯山が開幕レギュラーの座をつかみます。打撃自体は相変わらず期待できず、この年も打率は1割4分1厘と散々でしたが、堅い守備がヒルマン監督の心をつかみ、前年のおよそ倍となる86試合に出場しました。守備固めとして終盤に登場する飯山は同じキャラクターの紺田敏正と並んでスーパーサブコンビとしてファンからも認識されました。そして、チームもこの年日本一に輝くなど最高のシーズンとなりました。
プロ入り20年目もバイプレーヤーとして活躍
プロ入り9年目にして一軍フルシーズン定着、チームの日本一に貢献した飯山裕志。更なる活躍が期待された07年、飯山は前年よりも守備の面で頭角を現し、自己最多となる105試合に出場。打席数は前年よりも半減して55打席しかたっていないところを見ると、いかに飯山が守備に特化したかがわかります。そして、この年から飯山は「守備のクローザー」と称されるようになり、ファンからも親しまれていきました。
そして迎えた08年、飯山は背番号を「4」に変更。レギュラーでもない選手に一桁番号を与えたところにチームの期待が大きいことがわかりますが、飯山はこのプレッシャーに押しつぶされてしまったのか、成績は再び低迷。梨田昌孝新監督の期待に応えることができませんでした。
この年はショートのレギュラー金子誠が不振で、故障による戦線離脱の際には、飯山がレギュラーとして起用されましたが、打撃面で期待ができないのは相変わらずでした。攻撃面を重視するチームなだけに、次第に若手の陽仲寿(現・岱鋼)や高口隆行にのその座を奪われていきました。
しかし、飯山が輝いたのはクライマックスシリーズ第2ステージでした。このシリーズ中、金子は腰痛が悪化したため、初戦では9番ショートとして自身初のポストシーズンの先発出場を達成します。第3戦目ではタイムリーを放つなど要所要所で活躍を見せました。
以来、飯山は年間で70試合前後に出場し、守備固めとして起用されるという起用法で固定されるように。打撃も09年には打率3割を記録したこともありますが、基本的には守備オンリーでの起用がほとんどでした。細く長くを地で行く選手生活で、いつしか飯山はチーム最年長に。昨季にはプロ入り19年目にして初のFA権まで取得しました。
しかし、飯山を最も必要としているのは日本ハム。互いに相思相愛ということで飯山はFA権を行使せずに残留し、2017年、20年目のシーズンを迎えました。