大石大二郎について

名前 大石大二郎
生年月日 1958年10月20日
日本
出身 静岡県静岡市
プロフィール 静岡商業時代に甲子園に2度出場。亜細亜大学に進学し、東都大学リーグの1シーズン最多盗塁(17個)を記録し注目される。81年ドラフト2位指名で近鉄に入団、82年の新人王とダイヤモンドグラブ賞を獲得。1番・セカンドの定位置を確保し、83年福本豊(阪急)の14年連続盗塁王を阻止して盗塁王となり、以来盗塁王3回。90年は打率.314でベストテンの2位に入る。95年8月対日本ハムでプロ野球7人目の400盗塁を達成。97年シーズン限りで引退。攻走守3拍子揃った好選手で、礼儀正しさでも球界一との定評があった。通算成績は実働17年、1892試合、6664打数1824安打、415盗塁、236犠打、36犠飛、打率.274。87年9月〜90年“第二朗”の名前で登録した。現在は関西テレビの野球解説者。

競輪選手を目指した小兵がプロのスカウトに注目される

大石大二郎の持ち味であるファイト溢れるプレーのベースになったのはなんと柔道でした。というのも大石には2つ上の兄がいて、中学時代に兄は野球部に入って主将を務めていたのですが、大石はそんな兄と比べられるのを嫌がったために柔道部へ入部しました。しかし、小柄な体ですばしっこい大石は柔道よりもスピードを生かせる野球をすべきという周囲の判断から、柔道部をわずか2ヵ月で退部し、中学1年の6月からは野球部に所属するようになりました。

静岡商業高校に入ると、兄が所属する野球部に入部します。当時の静岡商業は部員が50人を超すという大所帯でしたが、大石のたぐいまれなスピードはずば抜けていて、1年生の夏からベンチ入りを果たします。出場こそありませんでしたが、この年の静岡商業は甲子園でもベスト8入り。翌年の春のセンバツではレギュラー入りした大石がけん引して、チームをベスト8に導きました。

しかし、この頃の大石には野球を続けていこうという気持ちはあまりありませんでした。というのも体が小さかった大石はプロでは続けられないと判断し、早めに次の道を模索していました。その中の一つとして挙げていたのは静岡県内では盛んなスポーツである競輪の選手でした。しかし、大石の足の速さを生かさないのはもったいないと思った父親は息子を説得する形で大学へ進学させます。結果、大石は亜細亜大学へ進学して野球部に所属します。

大学時代の大石のプレースタイルは後のプロ時代をもほうふつとさせるものでした。こつんとバットに当てて、塁に出ます。塁に出たら最後、あとは大石の独壇場でした。抜群のスタートから盗塁を何度も決めて、大学3年時の春季リーグでは17盗塁という当時の東都大学リーグの新記録を樹立するほどでした。大学通算でも44盗塁を決めていました。

この俊足に目を付けたのは近鉄バファローズでした。大石が大学4年生でドラフト候補として挙がった80年、近鉄はドラフト2位で大石を指名しました。大学卒業後こそ競輪選手になろうと考えていた大石は揺れましたが、亜細亜大学の野球部監督の強い勧めもあって、大石はそのまま入団しました。

福本豊を下して、盗塁王を奪取!

ドラフト2位指名という高い評価を受けていた大石大二郎。この頃の近鉄バファローズと言えば、いてまえ打線というキャッチフレーズからも知られるように猛打のチームとして名を馳せていました。その中で大石の役割と言えば守備・代走要員でした。ルーキーイヤーの81年は77試合に出場しましたが、打席に立ったのはわずか20回(打数は19)でした。それでも6安打を放って打率3割をマークしたところに首脳陣は着目します。

2年目の82年、大石にチャンスが巡ってきます。前年までセカンドのレギュラーだったビクター・ハリスがオープン戦で負傷し、外野手へコンバートされることになり、セカンドが空きました。少ないチャンスをものにすべく、大石はオープン戦で打率3割をキープしてレギュラーに定着します。そのまま開幕スタメン入りを果たした大石は129試合に出場、2割7分4厘、12本塁打、47盗塁という成績を残して周囲の期待に応えました。大石はこの年の新人王、ダイヤモンドグラブ賞を獲得し、チームの顔として急成長を遂げました。

打撃面でも定評のあった大石ですが、武器はなんといっても脚力でした。プロ野球で足を生かせるタイトルと言えば盗塁王ですが、当時のパリーグでそのタイトルを独占していたのは阪急ブレーブスの福本豊でした。史上最高のリードオフマンの名前をほしいままにして、この82年まで13年連続で盗塁王のタイトルを獲得していました。

難攻不落ともいえる相手でしたが、大石は83年シーズン、真っ向から勝負します。背番号も4に替わって心機一転、1番打者に定着した大石は塁に出れば即盗塁という具合で盗塁を量産します。そのペースは福本以上ともいわれました。そうしてシーズン終了時には福本54、大石60盗塁で見事に盗塁王のタイトルを奪取します。パリーグの俊足が福本から大石へと変わり、歴史が動いた年ともいわれました。

長打を打てる盗塁王も、故障に悩まされる

パリーグきっての俊足選手として名を馳せた大石大二郎。84年には2年連続の盗塁王のタイトルを獲得するとともに3年連続でオールスターゲームに出場しました。この試合で大石は快投を続けるセリーグ先発、江川卓からセカンドゴロを放ち、パリーグの9人連続三振記録を防ぎました。本塁打が出にくいとされるツチノコバットを使用していながらこの年は29本塁打をマークしたように、走れて打てるという万能選手になっていきました。

その後、近鉄の主力打者として君臨していった大石ですが、3度目の盗塁王を獲得した87年ごろから慢性的な肩の痛みに悩まされるようになります。中でも打撃面に影響が出て、88年には規定打席に到達した年ではワーストとなる2割5分2厘に終わります。しかし、夫人の献身的なケアもあり、優勝した89年に復調します。

そして90年には打撃も復活し、リーグ2位となる3割1分4厘、20本塁打をマークしました。長年の功績を認める形で大石は92年オフに年俸が1億500万円となり、大石は近鉄史上初の1億円プレーヤーにもなり、名実ともにチームの顔ともいうべき存在へとなりました。

ところが、35歳だった93年に盗塁王に輝いたのを最後にレギュラーから遠ざかるようになり、39歳となった97年からは若手を優先する方針の影響を受けて大石にチャンスはほとんどめぐってきませんでした。長らく「40歳まで現役&通算2000本安打を目指す」と公言していた大石ですが、この起用にはモチベーションを下げてしまい、この年のオフに球団から引退を勧告されると、この話を受けて引退を表明しました。翌年からは解説者としてチームをグラウンドの外から見ることになりました。

熱心な指導でオリックスを初のクライマックスシリーズへ

現役引退後、大石大二郎はしばらく現場からは離れていましたが、03年に6年ぶりに近鉄バファローズに戻ると、一軍守備・走塁コーチを任命されます。走塁のエキスパートの大石の指導によって強力打線を誇る近鉄に足という新たな武器が加わり、主砲であるタフィ・ローズもまた、開幕戦でいきなり盗塁を決めるほどでした。この年のチームの盗塁数増加に一役買いました。

しかし、大石が長年在籍していた近鉄は04年に消滅してしまいます。オリックスブルーウェーブとの合併で、オリックスバファローズとなると、大石は二軍の総合チーフコーチに就任します。翌年には二軍監督に就任し、若手育成に尽力、そしてこの活躍が08年の監督代行につながりました。

この08年シーズン、オリックスは不振で大石の就任時点では借金7で5位に低迷していました。しかし、大石はチーム方針を一新して積極的に若手を発掘します。さらにベテラン選手への配慮のある起用でチームを鼓舞すると一気に巻き返して2位に浮上、オリックス初のクライマックスシリーズ進出に貢献しました。

しかし、その栄華は長く続きませんでした。翌年は正式な監督に就任した大石ですが、投手陣が見る影もなく打ち込まれ、さらにクリーンナップを務めていたローズ、アレックス・カブレラなどの主力外国人選手がこぞってケガで戦線離脱してしまいました。これではどうしようもなくなり、結果はまさかの最下位、この責任を取る形で大石は監督を辞任してしまいます。

その後大石は09年に福岡ソフトバンクホークスのヘッドコーチに就任し13年に退団するまで4年間勤めあげると、そのノウハウを生かして、アマチュア野球の指導に尽力します。16年の12月からは社会人野球チームのジェイプロジェクトの監督にも就任しています。


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