岡野雅行について

名前 岡野雅行
生年月日 1972年7月25日
日本
出身 神奈川県横浜市
プロフィール 1992年大学選抜に選ばれる。のち日大を中退して浦和レッズに入団。100メートル10秒台の記録をもつ。95年インターコンチネンタル選手権日本代表にも選ばれた。97年フランスW杯アジア最終予選では、アジア第3代表決定戦の対イラン戦で決勝ゴールを決め、史上初のW杯本大会出場権を獲得に貢献。98年W杯フランス大会代表。99年オランダの名門クラブ・アヤックスのテスト生として経験を積む。同年6月235日ぶりに代表復帰。2001年9月期限付きでヴィッセル神戸に移籍。175センチ、66キロ

サッカーをしたいがために進んだ学生時代

後に「野人」の愛称で知られる岡野雅行でしたが、少年時代の岡野はとにかくサッカー好き。小学生からサッカーを始めた岡野でしたが、学業の方はお世辞にも優れていたわけではありませんでした。それでも高校、大学、果ては実業団までサッカーをしたいと考えた岡野はサッカーの本場であるブラジルの留学を希望しますが、両親の反対によってこれを断念。結局、親せきの勧めで島根県松江市の松江日本大学高校に進学します。

この学校にはサッカー部はありましたが、当時の部員数は岡野を含めてわずか2人。ほぼ休部状態のサッカー部を盛り上げようと岡野は自らキャプテン兼監督となり、部員の確保に指導、そして周辺高校との練習試合のスケジュールを調整するなど、高校生とは思えないバイタリティの高さを発揮。岡野が3年生になるころには休部状態だったサッカー部は島根県内で3位に食い込むまでに成長します。

高校を卒業後、岡野は日本大学へ進学。間もなく大学選抜に選出されますが、この時の天皇杯予選で長島裕明に出会ったことが岡野のサッカー人生を変えました。岡野はそれまでミッドフィルダーとして前線へと走る選手に対してボールを供給するのがプレースタイルでしたが、天皇杯以降は自分が前線に向けて蹴ったボールに対して自らが追いつき、自分でシュートを決めたほうが楽と感じるように。100m10秒台という俊足を生かした岡野ならではのプレーですが、この荒々しいスタイルが後に「野人」と称されたキッカケにもなりました。

93年の天皇杯関東大会で筑波大学と対戦した日本大学は岡野の活躍もあって快勝。岡野自身も当日朝まで飲んでいたという最悪なコンディションながら、2ゴールを決める大活躍。これを見たJリーグクラブの関係者からスカウトが殺到しました、中でも岡野を最も高く評価していたのは浦和レッズ。岡野もこの熱意に応える形で大学を中退し、浦和への入団を決めました。

浦和入団後、野人の愛称で人気沸騰

「大好きなサッカーをしたい」という気持ちだけでここまでやってきた岡野雅行。即戦力選手として浦和レッズも期待を寄せ、ルーキーイヤーの94年からいきなりリーグ戦では35試合に出場しました。長髪をかき乱しながらただボールに向かって突っ走るスタイルはいつしか「野人」と称されるようになり、サポーターからも人気を得るようになりました。

翌2年目の95年はインターコンチネンタル選手権日本代表にも選ばれただけでなく、リーグ戦でも自己最多となる44試合に出場と、タフネスぶりを発揮します。

岡野がJリーガーとしてキャリアハイを迎えたのが96年。この年、リーグ戦の出場試合数こそ前年を下回りましたが、攻撃的なプレースタイルからシュートを量産して自己最多となる11得点をマークしてベストイレブンに選出されました。さらにJリーグフェアプレー賞も同時に受賞します。また、この年は日本代表としてもウルグアイとの親善試合で初ゴールを決めるというのちの活躍を予感させる出来事もありました。

伝説となったジョホールバルの歓喜

浦和レッズには欠かせないスター選手となった岡野雅行。前年からテレビCMへの出演も増加し、岡野の名前を知らない人はサッカーファンからはほとんどいなくなりましたが、国民的な注目を浴びるようになったのは97年、FIFAワールドカップ・アジア最終予選の対イラン戦でした。

翌年に控えたフランスワールドカップへの出場に向けて、絶対に落とせない試合だったこのゲーム。それまでに日本代表は一度もワールドカップに出場したことがなく、さらに93年の「ドーハの悲劇」を経験した後だけにこのイラン戦を勝利するか否かは国民的な関心ごとでした。悲願のワールドカップ出場が岡野ら日本代表選手たちにかかっていました。

白熱した試合は2-2の同点となり、先にゴールを決めたほうが勝利となるゴールデンゴール方式を取られたこの試合、日本代表監督の岡田武史はそれまで試合で活躍していたものの、疲れが見えてきた北澤豪から岡野へと交代。それまで岡野は一度もこの予選に出場していなかっただけに不安視もされる采配でしたが、監督は岡野の俊足に賭けました。しかし、交代直後の岡野は思うように動けず、シュートチャンスを再三潰してしまいました。

もう後がなくなった後半13分、呂比須ワグナーが中盤で奪取したボールを中田英寿につなぎ、中田が自らミドルシュート。これを相手キーパーがはじいたところに飛んできたのが岡野でした。ルーズボールとなったボールを蹴り込み見事にゴール。日本代表悲願のワールドカップ出場を決めるシュートを決め、岡野はこれまでのミスを帳消しにしました。同時に岡野の名前は伝説のものとなりました。

ちなみにこの試合は「ドーハの悲劇」に並ぶ形で「ジョホールバルの歓喜」と称され、今もなおサッカーファンの間では語り草の試合となっています。

W杯後、チームを変えながらも41歳まで活躍

ジョホールバルの歓喜を演出し、フランスワールドカップに出場を果たした岡野雅行。その後も浦和レッズの中心選手としての活躍が期待されましたが、01年には浦和の監督に就任したチッタの信頼を得られず、出場機会を失います。そのため岡野はこの年のシーズン途中にヴィッセル神戸へ移籍します。

03年のシーズンオフ、岡野は念願とも言えた海外でのプレーを目指し、イタリア・セリエAのSSラツィオと契約寸前まで漕ぎづけましたが、厳しいメディカルチェックによって断念。行き場がなくなった岡野はこの年、浦和へ復帰しました。かつてのスター選手の帰還にレッズサポーターは大喜びで歓迎します。

岡野もこの期待に応えて衰えを見せないプレーで浦和に貢献。07年には天皇杯連覇に大きく貢献しました。しかし、高齢であることを理由に08年オフに自由契約となると、09年には香港のサッカーチーム、天水圍飛馬に移籍しますが、ここも1年で退団します。そして7月にはガイナーレ鳥取に移籍します。このクラブでは13年までプレーし、41歳で現役を引退。長いサッカー生活にピリオドを打ちました。

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