小田幸平について

名前 小田幸平
生年月日 1977年3月15日
日本
出身 兵庫県高砂市
プロフィール 小学3年から野球を始め、以来捕手一筋に歩む。その後市川高を経て、三菱重工神戸に入社。97年3回連続出場となった第68回都市対抗野球大会の対TDK戦で、好リードと初アーチを放ち、2年連続初戦突破に貢献する。メガネの捕手ということからヤクルトの捕手・古田二世として話題になる。10年ドラフト4位で巨人に入団。右投右打。180センチ、84キロ

社会人野球でブレイクした古田二世

小田幸平が野球を始めたのは小学3年生のころでした。当時から小田は捕手として起用されていましたが、小学生のころから頭がよかった小田にとって捕手は適任ともいえるポジション、司令塔としてチームを支えるようになりました。野球どころと言える兵庫県の出身で、高校は市川高校というさほど強豪というわけではない高校に進んだことが影響したのか、甲子園大会には3年間を通じて無縁のままでした。高校卒業後には社会人野球の三菱重工神戸へと入社し、野球を続けることになります。

小田がドラフト候補生として注目を集めるようになったのは97年の都市対抗野球大会でした。小田はこの大会中TDK戦で投手を巧みなリードで好投をアシストすると、自らもバットで援護します。チームの2年連続初戦突破に大きく貢献しました。この活躍、さらに堅守を評価されてこの年のドラフト会議で読売ジャイアンツに4位指名を受けて入団します。

ちなみにこの頃の小田のトレードマークとして知られるのが眼鏡でした。眼鏡をかけた捕手と言えば思い浮かぶのがヤクルトスワローズの古田敦也。それもあって、小田は入団直後「古田二世」として騒がれました。ちなみに古田も小田と同じ兵庫出身で、社会人野球でプレーした経験を持っています。

巨人入団も持ち前のポテンシャルを生かせず

小田幸平は4位指名という低い指名順の割には期待の選手として取り上げられていました。というのも、当時の巨人は捕手がベテランの村田真一がレギュラーを張っていますが、年々衰えが見られるようになってきた時期で杉山直輝らの2番手捕手にその座を脅かされていました。杉山らにしても決め手に欠ける面があったため、堅守の小田が食い込むチャンスは十分にありました。そのため1年目の98年から出場機会に恵まれ、2年目の99年には開幕一軍の切符を掴みます。

しかし、開幕直後の横浜戦で小田の評価が急落する事態が起こります。この試合、巨人は2回裏の時点で8点を取って楽勝ムードでしたが、3回表に村田が死球を食らい負傷交代します。これで急遽マスクを被ることになった小田ですが、先発したバルビーノ・ガルベスとの相性は最悪、交代直後に5点を失い、さらに6回にはガルベス含め後続の投手が続々打ち込まれて6点を奪われてついに逆転を許しました。楽勝ムードの試合のはずが9対13で敗れるという歴史的な逆転劇に遭います。

この試合で投手陣が撃ち込まれた理由として小田のリードが挙がり、この試合後に二軍落ちを喫します。その後10月まで一軍に上がれないという不運もありました。

以降の小田は堅実な守備こそ定評がありましたが、打撃に難がありなかなか一軍に定着できないシーズンが続きます。肝心のレギュラー捕手の座も01年に自身よりも若い阿部慎之助が入団したことでほぼ絶望的になります。プロ入り5年目までの通算試合出場数はわずか20に留まりました。戦力外通告を受けてもおかしくない成績でしたが、捕手であることを理由に残留し続けました。

しかし、巨人時代の小田を高く評価していたのは意外にも堀内恒夫でした。堀内が監督を務めた2シーズン、小田は2番手捕手として2年トータルで55試合に出場。04年には初の本塁打を放つなどの活躍も見せました。

落合博満に見初められた、人的補償入団

05年、小田幸平は自己最多となる31試合に出場を果たします。打撃成績は低調でしたが、堅守を武器にするプレースタイルでチームには欠かせない存在となっていきました。

しかし、この年のオフに原辰徳が監督に復帰します。そして補強の一環として中日ドラゴンズのエース、野口茂樹をFAで獲得します。獲得した選手の人的補償という形で中日は巨人のプロテクト外の選手を選ぶことができますが、そのリストの中にいたのがなんと小田でした。中日監督の落合博満は迷うことなく小田を選択し、中日に入団させます。

後に落合は「大もうけだと思った」と語るほど喜んだ小田の加入でした。というのも中日のレギュラー捕手を務めていた谷繫元信もベテランの域に入ってきたためサブ捕手の存在は必要不可欠でした。また、移籍直後の06年は特に山本昌との相性がよかったこともあり、小田は山本昌専属の捕手として起用されるようになりました。決して目立つことはありませんでしたが、小田がチームを陰から支えていたことは間違いなく、06年の中日の優勝に貢献したことは間違いありません。そのため、小田の年俸も3600万円まで上昇しました。

07年、小田は背番号が26に変更され、ますます期待される存在になります。2番手捕手としての位置は不動でしたが、この年は山本昌の不調もあって出場機会自体は微減してしまいました。しかし、チームは53年ぶりの日本一に輝き、小田も歓喜の輪の中にいました。また、この年のオフにレーシック手術を受けたこともあり、小田はトレードマークの眼鏡を翌08年から付けなくなりました。

その08年小田は中日移籍後、自己最多となる41試合に出場しますが、谷繫不在時のリードがあまり芳しくないということで監督からも苦言を呈されるようになります。同様のケースは09年にも起こり、小田の立ち位置も危ぶまれるようになりました。

ヒーローインタビューで人気爆発。チームに欠かせない選手に

崖っぷちとなった10年シーズン、小田幸平は開幕を二軍で迎えましたが6月に昇格後、意外にもバットで大活躍します。さらに前年リードで苦言を呈されていたのがウソのように冴えを見せて、打率は自己最高となる2割7分4厘をマークします。この年に人生初のお立ち台も経験しました。ヒーローインタビュー時に行った「やりましたーっ!」コールはすぐに中日ファンの心をつかみ、一躍人気選手の仲間入りをも果たしました。

落合監督ラストイヤーとなった11年、小田はこの年にFA権を獲得します。控え捕手としては異例の権利獲得となりましたが、小田は自分を必要としてくれるチームでプレーしたいという理由からこの権利の行使を拒否します。生涯中日を貫くことになりました。そしてその言葉通り、14年オフに戦力外通告を受けると、引退を発表しました。史上最強ともいえる2番手捕手のキャリアに幕を下ろしました。

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