名前多治見麻子(タジミアサコ)
生年月日1972年6月26日
日本
出身出身 東京都小平市
プロフィール母が東京五輪の最終合宿候補となったバレーボール選手だった影響で小学校6年からバレーを始める。

三鷹第二中3年の時、第1回さわやか杯オリンピック有望選手に選ばれた。八王子実践高に進み、エースに。1989年世界ユース(17才以下)選手権で3位入賞の原動力となった。1990年から全日本入り。1992年バルセロナ五輪、1996年アトランタ五輪代表。1994年、1998年世界選手権、1991年、1995年、1999年W杯出場。

2000年1月左ひざの手術を受ける。2001年5月廃部に併い、同年6月パイオニアに移籍。2004年、チームの初優勝に貢献。2007年、8年ぶりに日本代表に復帰。同年のアジア大会優勝に貢献。2008年、チーム最年長で北京五輪に出場し5位。

2009年パイオニアコーチ兼任。2011年6月パイオニア退団。同年10月日立リヴァーレに移籍。2012年5月、21年の現役生活に別れを告げて引退。同年5月から三鷹市の市政嘱託員を経て、2014年GSSサンビームズコーチ就任。2015年早稲田大学大学院スポーツ科学研究科 修了。2016年6月、トヨタ車体クインシーズ監督に就任。

ポジションはセンター。八王子実践高卒、179センチ、68キロ

八王子実践高校から日立入社と、バレーエリート人生を歩む

多治見麻子は、1972年東京都小平市に生まれます。母親が東京五輪最終合宿候補に選出されたバレーボール選手だった影響で、小学6年生から大沢スポーツクラブでバレーを始めました。三鷹二中学時代に、全国都道府県対抗中学バレーボール大会(第1回さわやか杯)で活躍し、オリンピック有望選手に選出されます。

1987年、バレーの名門・八王子実践高校に進学するとエースアタッカーとして活躍しました。1989年の世界ユース選手権ではセンターとして出場して3位に貢献し、1990年春高バレーでも見事に優勝に貢献します。同年には早くも日本代表に選出されて、1991年に名門・日立に入社するというまさにバレーエリート人生を歩みました。

日本代表主力として2大会連続五輪出場も、歴代ワースト順位

日立は多治見麻子が加入したことで、さらに強さに磨きがかかります。1991年に、日本リーグ新人王を受賞し、1992年からは2年連続でブロック賞にベスト6とチームの4連覇に貢献しました。すでに日本代表常連メンバーとなっており、1992年にはバルセロナ五輪に出場します。前回(ソウル)大会で4位と、女子バレー史上初めてメダルを逃し奮起が期待されました。しかし予選をグループ3位で通過すると、準々決勝でブラジルに敗れてメダル可能性がなくなります。オランダには何とか勝利し5位を死守しましたが、日本女子バレーの衰退は始まっていました。

世界選手権(1994年)やW杯(1991年、1995年)などにも日本代表主力として出場しますが、日本は5位から7位あたりに低迷します。1996年、2度目の五輪出場となるアトランタ五輪にも参加しました。しかし、予選を6チーム中5位というギリギリで通過すると、前回同様準々決勝で完敗し、最終順位は9位というかつてない惨敗を喫します。

日本女子バレー界の窮地に、主将に抜擢されるも成績は振るわず

多治見麻子が所属していた日立ベルフィーユも、同じように凋落をたどり、1994年からVリーグ順位を3位、6位、7位と下げ続けます。1シーズンだけでしたが、1997年度にV1リーグ降格すら経験しました。こうした、チームが最も苦しい時期にも関わらず、25歳だった多治見は日本代表の主将に抜擢されます。1998年、主将として世界選手権に臨みましたが、準決勝ラウンドで予選落ちし、最終成績は8位と上位進出できませんでした。

1999年1月、多治見は持病の左膝の手術にふみきりました。まだ完治していない状況でしたが、主将の責任感で同年のW杯に出場します。やはり満足なプレーをすることができず、チームも6位と上位国を揺るがすこともできませんでした。

シドニー五輪最終予選ではコートにすら立てず、五輪出場切符を逃す

当時、Vリーグでも本来の活躍ができないまま、五輪開催年が間近に迫ります。2000年6月に五輪出場をかけた世界最終予選が行われましたが、多治見麻子は膝の状況が思わしくなく、レギュラーメンバー12人への選出すら逃しました。さらに、多治見と同じくセンターの軸であるはずの江藤直美も、肘の怪我が完治しておらず手負いの状態での出場を余儀なくされます。

全8チームの総当り戦は、いきなり3連勝して波に乗りましたが、中国・イタリア・クロアチア・韓国に4連敗し、女子バレー史上、初めて五輪出場を逃します。そんな日本の窮地に、多治見は観客席から応援することしかできませんでした。

日立ベルフィーユ廃部に伴い、移籍したパイオニアで優勝に貢献

日本代表から名前が外れると、2001年、所属していた日立ベルフィーユにも激震が走ります。本社からの支援体制が限界に達し、かつて王者だったチームが廃部に追い込まれました。多治見麻子は同年、パイオニアへ移籍して、パイオニアレッドウィングスの一員となります。同チームは、1999-2000年にV1リーグで全勝優勝を飾り、続く入れ替え戦でVリーグに昇格していました。

さらなる高みを目指しチームの監督にアリー・セリンジャーが就任すると、多治見自身も復活してチームも上昇気流にのりました。ベテラン選手をチームの主力に据えたチームは、前全日本主将の吉原知子も加入させて厚みを増します。そしてチーム創設25年目の2004年に初優勝を飾りました。翌年も準優勝と好調を維持すると、2006年には2度目の優勝とチームの黄金期を支えました。

再び日本代表として名を連ね、チーム最年長で北京五輪に出場

Vリーグ長期活躍選手として表彰された2007年、多治見麻子は8年ぶりに日本代表への復帰を果たします。同年のアジア大会でも、24年ぶりの優勝に貢献しました。そして2008年、北京五輪世界最終予選も勝ち抜き、12年ぶり自身3度目の五輪出場を果たします。日本女子バレーは、2003年に柳本晶一が監督に就任し、かつての低迷期を脱していました。そして北京五輪では、多治見と一緒に悔し涙を流し、一時の引退から復帰した竹下佳江が主将を務めます。多治見はチーム最年長として出場しましたが、アテネ大会同様の5位に終わりました。

2009年7月からはパイオニアのコーチ兼任となりました。その後もベテランとして君臨していましたが、2011年パイオニアを退団します。同年10月に日立リヴァーレに移籍し、2011/12Vチャレンジリーグのチーム優勝に貢献して、21年という長い現役生活に別れを告げました。

引退後は、指導者の道を進みトヨタ車体クインシーズ監督に就任

現役引退後は、三鷹市の市政嘱託員を経て、新たに創設された早稲田大学の大学院のスポーツ科学研究科「エリートコーチングコース」に入学します。並行してVチャレンジリーグのGSSサンビームズのコーチに就任して指導者の道をスタートさせます。翌年、修士課程を修了すると、2016年、V・プレミアリーグのトヨタ車体クインシーズ監督という仕事が舞い込みました。V・プレミアリーグでは中田久美、吉原知子に次ぐ3人目の女性監督です。自身3度の五輪を経験し、40歳直前まで現役を続けてきた経験を生かすべく初の監督業に取り組んでいます。


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