名前 | 土佐礼子(トサレイコ) |
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生年月日 | 1976年6月11日 |
国 | 日本 |
出身 | 愛媛県松山市 |
プロフィール | 中学校ではバスケットボールで活躍するが、団体競技の部活動が制限されている松山商進学コースに進み、陸上を始める。松山大ではインカレ5000メートル12位が最高。
1999年三井海上火災保険に入社、1500メートルからマラソンに転向。2000年3月名古屋国際女子マラソンで歴代4位の記録をマークし2位、同年11月東京国際女子マラソンでも2位。2001年世界選手権女子マラソンで銀メダルを獲得。2002年ロンドンマラソンで自己記録を更新して4位入賞。 2004年名古屋国際女子マラソンで優勝しアテネ五輪日本代表に選出。同年のアテネ五輪では5位入賞を果たす。2006年11月、東京国際女子マラソン優勝、2007年世界陸上3位で、北京五輪代表内定。しかしすでに足を痛めており、北京五輪は25km地点で途中棄権。 2012年3月の名古屋ウィメンズマラソンをラストランに現役生活を終了。松山大学卒、166センチ、45キロ |
中距離では全く芽が出ず、社会人時代1年目にマラソンに転向
土佐礼子は、1976年愛媛県松山市(旧北条市)にて生まれます。中学時代まではバスケットボール部に所属していましたが、松山商業高校で竹本英利監督に出会い陸上競技を始めました。主に中距離を専門とし、1993年には愛媛県高校総体3000mで優勝を飾ります。しかし、全国大会では上位進出できる選手ではありませんでした。卒業後は地元の松山大学へ進学し、陸上を続けます。しかし、高校時代同様、全国的にはほぼ無名の選手であり、日本インカレ5000mの12位が最高位に終わりました。
1999年に松山大学を卒業し、三井住友海上火災保険(旧・三井海上火災保険)へ入社しました。学生時代同様、中距離の練習に明け暮れていましたが、高校生に負けることも多く、当時の鈴木秀夫監督からマラソン転向を提案されます。トラックではとても通用しそうもなく、すでに年齢的にも22歳にもなっていたことから、躊躇なくマラソン転向を決意しました。
すぐに頭角を現すと、3戦連続2位と安定した力を見せる
同チーム市河麻由美のボルダー合宿同行から、本格的なマラソン練習をスタートしました。しかし、40日間の高地トレーニングは、土佐礼子を一気にマラソンランナーへと変えていきます。市河をしのぐような強さを身につけると、帰国後のレースでも徐々に結果を出していきました。6月の札幌国際ハーフマラソンで6位、10月の世界ハーフマラソンでも6位に入り、いよいよ社会人としてマラソンデビューを2000年3月の名古屋国際女子マラソンに絞ります。実は、高校時代の1998年に一度愛媛マラソンで優勝していたため、正確には2度目のマラソンでした。
レースをリードした高橋尚子の後をついて走り、中盤からのスパートで離されこそしたものの、実質の初マラソンで2時間24分36秒(当時女子マラソン日本歴代4位)のタイムで2位に入りました。その後トラックレースにも積極的に参加し、自信をつけて同年11月の東京国際女子マラソンにもエントリーします。優勝したジョイス・チェプチュンバ(シドニー五輪銅メダリスト)に途中引き離されて、2時間24分47秒で2位に終わりましたが、世界陸上代表に初選出されました。2001年8月の世界陸上でも、リディア・シモンに残り1kmでかわされてわずか5秒差の2位(2時間26分06秒)となりましたが、見事な銀メダルを獲得しました。
アテネ五輪日本代表選考では、高橋尚子に代わって代表入り
突如、女子マラソン界に頭角を現した土佐礼子は、2002年4月のロンドンマラソンでは4位でしたが、当時日本歴代3位の2時間22分46秒と自己新記録を更新してアテネ五輪日本代表候補に名乗りを上げます。しかし、その後は故障のためレースに出場できない日々が続きました。
アテネ五輪の代表枠は3名で、世界陸上で銀メダル獲得の野口みずきがまず内定しました。残る2枠も、大阪国際女子マラソンで優勝した坂本直子、東京国際マラソンでは2位でタイムも平凡でしたが実績を買って高橋尚子でほぼ内定という空気が漂います。そんなさなか、最後の選考レースであった2004年3月の名古屋国際女子マラソンに約2年ぶりに参加することになりました。
まるで消化レースのような扱いでしたが、土佐が意地を見せます。後半まで先頭集団にいましたが、田中めぐみが引き離して、11秒差をつけて独走状態に入りました。しかし、諦めない土佐は終盤に逆転して、2時間23分57秒という代表候補者3名の誰よりもしのぐタイムで優勝を飾ります。当然、代表選考は紛糾し、最終的に高橋が落選して、野口、坂本、土佐が日本代表として選出されました。
アテネ五輪では野口みずきの金メダルに次いで、5位入賞を果たす
シドニー五輪で金メダルを獲得し、その後も世界記録を樹立していた高橋尚子の落選は、物議をかもしましたが、日本代表3名は本戦で実力を出し切りました。気温30度を超える猛暑の中、野口みずきが25km地点でロングスパートを仕掛けます。土佐礼子、坂本直子、さらには他の優勝候補たちも誰一人着いていけず野口の独走状態となりました。終盤キャサリン・ヌデレバが追い上げましたが、12秒差で逃げ切り野口が金メダルを獲得し、何とか後続についていった土佐が5位、坂本が7位と日本代表女子は3人すべてが入賞を果たしました。
2大会連続出場の北京五輪は、疲労骨折で無念の途中棄権
土佐礼子は、アテネ五輪後に結婚しても、競技生活を続けました。2006年4月には、1年8ヶ月ぶりのフルマラソンとなったボストンマラソンに出走して、2時間24分11秒のタイムで3位に終わります。同年11月、東京国際女子マラソンに出走して、高橋尚子と久しぶりの直接対決を迎えました。土佐は、終始レースをリードして、2時間26分15秒とタイム的には突出していませんでしたが、見事優勝を飾ります(高橋は3位)。世界陸上の代表権を手にし、その本戦でも終盤に驚異的な粘りを見せて3位に入り、北京五輪の日本代表にも内定しました。
野口みずきとともに、2大会連続五輪出場となり(ほか1名は中村友梨香)、3大会連続のメダルが期待されましたが、ともに怪我に泣きます。土佐は、右脚を痛めており走れない状態が続いていました。しかし野口はレース直前に出場辞退したため、鞭打ってスタートラインに立ちます。10km過ぎから早くも右足に激痛が走り、スピードを落としながらも懸命に走りました。しかし、25km地点でついに耐えられなくなり無念の途中棄権を強いられます。右脚の外反母趾の痛みが原因でしたが、実は疲労骨折もしていました。
名古屋ウィメンズマラソンをラストランに現役生活を終了
北京五輪後は、第一線から退くことを宣言します。2009年3月には、東京マラソン2009に出走して、序盤で転倒しながらも、2時間29分19秒で3位に入りました。その後、オープン参加の愛媛マラソンをトップでゴールインし、2012年3月の名古屋ウィメンズマラソンをラストランにすることを発表します。序盤から優勝争いに加わることなく、自身のペースを守り、2時間43分11秒で完走しました。このレースにて宣言どおり、現役生活を引退し、三井住友海上女子陸上部のプレーイングアドバイザーとしての活動を続けています。