名前荻原次晴(オギワラツギハル)
生年月日1969年12月20日
日本
出身群馬県吾妻郡草津町
プロフィール中学3年の時、双子の兄・健司とともにスキーの全国大会復合競技で1、2位を独占、“荻原兄弟”の名を全国にとどろかせる。

長野原高時代、インタハイ3位、国体3位。1988年世界ジュニア選手権では40位前後。1989年大学選手権で3位となる。1995年1月W杯第7戦では兄に続き2位入賞。

1998年長野五輪個人6位、団体5位。同年現役を引退。

引退後はテレビ出演やスキー及びウィンタースポーツ普及のための講演活動を行う。著書にエッセイ「次に晴れればそれでいい」がある。早稲田大学人間科学部

幼少期は兄・健司をしのぐ才能を持つも、情熱が失せ始める

荻原次晴は、1969年、兄・健司の双子の弟として群馬県吾妻郡草津町に生まれます。二人して、5歳の頃から器械体操を習い、小学5年生からは兄よりも先に、「草津スポーツ少年団」でスキージャンプを始めました。1年後に健司も同じくスキーを始めますが、幼い頃から何をやらせても、次晴のほうが器用であり、中学1年生には一人だけ全国大会に出場します。しかし、健司がコツコツ努力するタイプに比べ、自身は飽きっぽい性格だったこともあり、中学3年時は同じ全国大会で、兄弟ワンツーフィニッシュを飾るも2位に甘んじていました。

長野原高校に進学し、兄弟揃って初の国際大会となる世界ジュニア選手権に出場します。しかし、出場40戦手中、健司36位、次晴39位という惨敗を経験すると、その後兄弟の間で大きく方向性が変わりました。奮起して猛練習に明け暮れた健司に対し、世界との差に諦めの境地にいた次晴は次第にスキーから心が離れていきます。1988年、全日本選手権少年の部で優勝し、前年同様世界ジュニア選手権に出場しましたが、健司が16位と順位を上げていたのに対し、自身の順位はほとんど変わらず、さらに情熱は冷めていきました。

大学時代に兄と完全に差がつき、比較され続ける苦悩の日々が続く

高校卒業する頃には、スキーへの情熱はほとんどなかった荻原次晴でしたが、それまでの実績が考慮されて、兄と同じく早稲田大学への進学が決まります。自身も全日本強化指定選手となりナショナルチーム入りしましたが、特訓に身が入らない日々が続き、当然兄弟の間の差は開いていく一方でした。本気で世界を目指す兄・健司に対して、冷やかしの感情すら抱き、自身はラッパーとして新たな人生を歩もうとします。その間に、兄は日本代表にも上り詰め、1992年のアルベールビル五輪出場メンバーにも名を連ねました。

そして、健司は初の五輪にも関わらず、尋常ならぬ精神力で、団体戦金メダルをもたらします。個人でも日本最高の7位に入るなど一気に日本の第一人者となりました。アルベールビル五輪で日本唯一の金メダル獲得だったこともあって、荻原健司の名は一瞬にして日本中に知れ渡ります。一方、荻原次晴は、大学にすら行かない日々が続き、単位が足りず留年してしまいました。同じ顔の金メダリストと比較される日々が続き、兄弟の会話すらなくなります。挙句の果てには双子で生んだ両親に、心無い言葉を投げかけるなど荒れた状態に陥りました。

再びスキーに向き合い、世界王者となった偉大なる兄の背中を追う

どん底まで落ちた荻原次晴は、兄・健司と同じく北野建設に就職して再びスキーと向き合うことを決意します。当時、健司は世界でも連戦連勝を実現し、キング・オブ・スキーと称されるほど無敵状態でした。それでも、1994年のリレハンメル五輪出場へ向けて、努力を続けます。ワールドカップに出場していない次晴にとって、夢を実現するには全日本選手権で優勝することでした。しかし、無情にも優勝は健司が奪い、自身は3位で終わります。

結局リレハンメル五輪日本代表枠5名に入れず、悔し涙を流しました。さらに同五輪でも健司はエースとして団体戦金メダルを奪い、兄弟の格差はさらに開きます。再び、金メダリストと比較される日々が続きましたが、すぐさま目標を自国開催の長野五輪に定め努力を続けました。すると世界大会でも徐々に実力を出し始め、ワールドカップチェコ・リベレツ大会、ノルウェー・オスロ大会で連続準優勝を飾ります(優勝はともに荻原健司)。そして、世界選手権団体メンバーにも名を連ね、当時の世界ランキングでは、ついに健司の1位に次ぐ2位にまで上り詰めました。

初めて日本代表として長野五輪に出場し、兄弟で入賞を果たす

その後、ランキングは急降下しましたが、長野五輪を目の前にしてコンチネンタルカップに優勝し、ついに日本代表の座を手にしました。ようやく、兄と同じスタートラインに立つと、かつて才能の塊だった弟の意地を見せます。個人総合で、K点超えの大ジャンプを成功させて、健司の9位をしのぐ日本最高位の3位に躍り出ました。一気に注目が集まり、後半のクロスカントリーでは、健司が脅威の追い上げを見せて交わされましたが、離されずに必死に着いていきます。結果、健司は目標としていた個人メダルを逃す4位で悔しがりましたが、次晴は6位入賞にガッツポーズでゴールテープを切りました。ゴール後に兄弟で初めて厚い握手を交わします。そして団体戦では5位入賞とメダルには届かず終わり、同年限りでの現役引退を表明しました。

タレントに転身し、スポーツキャスターとしても活躍中

引退後は、タレントに転身し、主にスポーツコメンテーターとして活躍しています。長野五輪での活躍で自身も有名となり、兄と間違えられることも少なくなっていました。またテレビ以外でも、ウィンタースポーツの普及を目指して各地での講演活動も積極的に行っています。

2014年のソチ五輪時には、テレビ東京のメインキャスターを務め、時の人にもなりました。同大会で、渡部暁斗選手が1994年のリレハンメル五輪以来20年ぶりの銀メダルを獲得しましたが、あまりの感動に号泣でのレポートをします。その様子は、全国に生放送されて、メダル獲得した渡部よりも話題となるほどでした。


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