名前 | 成田真由美(ナリタマユミ) |
---|---|
生年月日 | 1970年8月27日 |
国 | 日本 |
出身 | 神奈川県川崎市 |
プロフィール | 中学1年のときに脊髄炎にかかり下半身マヒとなる。
1994年から水泳を始め、同年6月の東北身体障害者選手権で優勝。1995年アトランタパラリンピックのプレ大会に出場、3つの世界新記録をマーク。1996年アトランタパラリンピックのS4クラスの自由形で日本代表となり、100メートル、50メートルで世界新記録を出し金メダルを獲得。他に銀メダル2個、銅メダル1個の計5個のメダルを獲得。 1998年かながわ・ゆめ大会75メートル個人メドレー優勝。2000年シドニーパラリンピックでは世界新記録を連発し、金メダルを6個、銀メダル1個を獲得。閉会式では旗手を務めた。同年総理大臣顕彰を受賞。 2004年アテネパラリンピックでは、参加選手中最多の8個のメダル獲得(金7個、銅1個)、世界新記録も6個樹立。北京では突如のクラス変更を強いられ無冠に終わる。 2014年、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会理事に就任。リオを前にして突如競技者に復帰して、日本記録を更新。リオパラリンピックでも、メダルには届かずも日本記録をさらに更新。 神奈川スポーツ賞、川崎市市民栄誉賞、朝日スポーツ賞、日本フェアプレー賞、エイボン女性年度賞、神奈川スポーツ賞(パラリンピック賞)、総理大臣顕彰、毎日スポーツ人賞。174センチ、54キロ。著書に「私、泳げなかったのに」「あしたにトライ—車イスの金メダル」「夢への前進」がある。放送大学卒。1996年日本テレビに嘱託社員として入社 |
中学時代に下半身麻痺に遭うも、23歳から苦手だった水泳を始める
成田真由美は、神奈川県川崎市に生まれ、活発な幼少期を過ごしました。明るい性格でクラスの学級委員を務め、男子の中に一人女子が混じって遊びます。あらゆるスポーツに精通していましたが、唯一水泳だけが苦手で、プールからことごとく避けていましたので、カナヅチでした。ところが中学1年生時に、大きく人生が変わります。膝の手術をしたところ、そこからばい菌が入り、横断性脊髄炎を発症し下半身麻痺となりました。さらに、心臓病や高血圧症も患い、入退院を繰り返します。その後も、生死をさまようこともあり、高校、大学も病院から通うことを余儀なくされました。
激動の10代を過ごし車椅子での生活に慣れてくると、元来のスポーツ好きの性格から、様々なチャレンジを開始します。22歳から軽い気持ちでチェアースキーを始め、その後も車椅子バスケットボールや陸上などにも取り組みました。そんな時、同じ身体障害者スポーツクラブに通う仲間からリレーの出場選手が足りないという理由から水泳に誘われます。こうして23歳で12年ぶりにプールに入り、水泳を始めました。
障害を増やすも、アトランタパラリンピックで金2個を含む5個のメダル
元々スポーツ万能だった成田真由美は、泳げるようになると驚きのタイムを出していきます。水泳を始めてわずか1ヵ月後に出場した仙台の大会で、25m自由形、50m自由形の大会新記録を出して優勝を飾りました。しかし、その岐路で追突事故に巻き込まれてしまいます。頚椎損傷を患い、さらに両手に麻痺を追うという不運にあいました。
体温調節機能が利かなくなりながらも懸命なリハビリを行い、プレパラリンピック出場という機会を得ます。すると、出場した3種目すべてで金メダルを奪い、本格的にスイマーとしての自覚が芽生えました。そして、アトランタパラリンピックを10ヵ月後に控えた頃、横浜桜スイミングスクールで、福元寿夫(ロサンゼルスオリンピック水球日本代表)コーチに出会い、本格的な指導を受けます。すると初出場したアトランタパラリンピックで、金メダル2個、銀メダル2個、銅メダル1個という合計5個のメダルを手にしました。
再びプールに戻ると、シドニーでは世界新記録を連発する快挙達成
突如現れたスイマーは、帰国後一瞬にして時の人となり、取材や講演に終われる日々を過ごします。成田真由美も同じような障害を持つ人たちへ、勇気を届けることに専念しました。そんな生活で2年が過ぎた頃、シドニーで世界新記録を出すという大きなモチベーションが沸き、再びハードなトレーニングを開始します。しかし、またしても新たな病魔・子宮内筋腫に襲われました。手術という選択肢はもちろんありますが、妊娠に影響が全くないとも言い切れません。それでも、一日も早く練習を再開するため迷わず手術を選びました。
まさに自身が掲げた高い目標を達成することだけに集中し、術後トレーニングに戻ります。そして挑んだシドニーパラリンピックでは、出場した7種目すべてでメダルを奪い、内容も金メダル6個に銀メダル1個という完璧な結果を手にしました。さらに自身が目標としていた世界新記録も5つ樹立し、水の女王とすら形容されます。閉会式では旗手を務めるなど、さらに注目度があがった大会となりました。
病気や逆境とも戦いながら、アテネ、北京と4大会連続出場
その後も講演活動をしながらも、病気が完治したわけではなく、時には面会謝絶になるほど症状が悪化することさえありました。競技者引退という考えがよぎりましたが、それを踏みとどまらせる事件が起きます。アトランタ、シドニーとともにメダルを競い合ったカイ・エスペンハイン(ドイツ)が、2002年32歳という若さで人生に幕を閉じました。シドニーの50m自由形で世界新を出したときに、自分のことのように喜んでくれたライバルを思い、アテネパラリンピックにも出場します。するとシドニーを越える7個の金、1個の銅、と大会参加選手最多のメダルを獲得し、6個の世界新記録樹立という偉業を達成しました。
さらに続いて股関節の手術をしてまで北京にも出場しましたが、現地入り後にまさかの出来事に遭遇します。突然、自身が一つ障害が軽いクラスに振り分けられました。そのクラスの場合、メドレーでバタフライを泳がなければなりませんが、背筋と腹筋が使えないため個人メドレー辞退を余儀なくされます。さらに、飛び込みやクイックターンできる選手たちが揃っていたため、メダル獲得はとても無理な状況となりました。それでも競泳キャプテンを務めていた成田真由美は、最後まで泳ぎきりました。
7年ぶりに競技復帰して、日本記録を更新する力強い泳ぎを披露
その後、ロンドンパラリンピックは回避し、2014年、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会理事に就任します。しかし、リオを直前にして、次世代を担う水泳選手が少ないことを理由に、自らが競技者として復帰しました。そして本番50日前にジャパンパラ水泳競技大会に出場すると、自身が北京で樹立した日本記録を破るという驚きの泳ぎを見せます。
そして、2大会ぶり5度目のパラリンピックに出場し4競技中3競技で決勝に進出しました。50m自由形5位、100m自由形7位、50m背泳ぎ5位とメダルには届きませんでしたが、さらに日本記録を更新します。46歳にして数々の快挙を世間に披露して健在振りをアピールしました。次は、金メダル15個含めた合計20個という大きな経験を、自国開催の東京大会での成功に導くべく精力的に活動しています。もちろん競技者として再びプールに現れる可能性もゼロではありません。