名前 | 岡野俊一郎(オカノシュンイチロウ) |
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生年月日 | 1931年8月28日 |
国 | 日本 |
出身 | 東京都 |
プロフィール | 都立五中時代からサッカーを始め、東大サッカー部に入り、1953年日本代表サッカーチーム選手となる。
その後、西ドイツのクラマー・コーチに師事してコーチ学を学び、東京、メキシコ両五輪のコーチを務め、メキシコ五輪では銅メダル獲得に貢献した。1970年日本代表監督を経て、1998年日本サッカー協会会長。傍ら、1975年より日本体育協会理事、1977年JOC総務主事、1989年同専務理事、のち理事を務める。 1990年IOC委員。2002年のW杯が日本と韓国で共同開催されることが決定し、1998年サッカー2002年W杯実行委員長、国際サッカー連盟(FIFA)W杯2002年組織委員会委員に就任。2000年サッカー2002年W杯強化推進本部長を兼任。また1981年から臨教審委員も務めた。 著書に「サッカー」「サッカー教室」など。和菓子店・岡埜栄泉の5代目社長でもある。 日本サッカーリーグ創立功労者賞、NHK放送文化賞、藍綬褒章、東京都文化賞。東京大学文学部心理学科卒 |
東京大学FWとして、第1回全日本大学サッカー選手権大会優勝
岡野俊一郎は、1931年東京都に生まれると、幼少の頃から様々なスポーツを楽しみます。3歳から水泳、その後もスキー、野球などにふれあい、東京都立第五中学校(現在の小石川高等学校)時代に、同級生に誘われてサッカーに出会いました。同校卒業後、東京大学へ進学しサッカー部のセンターフォワードとして活躍します。そして、第1回全日本大学サッカー選手権大会では、準決勝、決勝で自らゴールを決めて栄えある初代王者をなりました。そうした活躍が評価されて、国際学生スポーツ週間(現在のユニバーシアード)に学生選抜チームの一員として派遣されます。1955年には、1試合ながら日本代表としてもプレーしました。
日本代表の戦術立案を担当し、メキシコ五輪銅メダル獲得に貢献
東京大学卒業後、岡野俊一郎はサッカー指導者の道を進みます。1961年、ユース代表監督として釜本邦茂や杉山隆一ら大学生有力プレイヤーたちを見出し、翌年から日本代表コーチに就任すると、1964年東京五輪では周囲の反対を押し切り、5人の大学生をA代表として抜擢しました。杉山の2ゴールなどで、ベスト8という快挙を成し遂げます。
当時日本代表コーチ・デットマール・クラマーによって、チーム力は上がってきていました。しかし戦術不足は否めず、東京大学時代のつてで海外からサッカー関連の雑誌やビデオを取り寄せます。岡野はクラマーの通訳を務めながら、日本代表の戦術を決定していました。そして、当初は全く期待されなかったメキシコ五輪を迎えると、釜本が7得点2アシストと日本の全得点に絡む活躍を見せて得点王に輝きます。日本チームは準決勝でハンガリーに敗れましたが、3位決定戦で地元メキシコを破り、見事な銅メダルを獲得しました。
認知度が著しく低い時代から、サッカー伝道師として多大なる貢献
その後も、岡野俊一郎は日本サッカーの伝道師として、多くの貢献をもたらします。1970年からおよそ2年間、日本代表監督を務めると現場を離れ、外からサッカー界を見つめました。日本サッカー協会(JFA)の理事、副会長を経て第9代目の会長を歴任します。会長退任後も名誉会長、最高顧問、相談役を務めて日本代表を見守り続けました。
また当時ほとんど日本にはサッカーが根付いておらず、子どもたちが世界のサッカー情勢について知る術もほとんどありませんでした。そこで、1968年からテレビ東京系列で「三菱ダイヤモンドサッカー」という国内唯一のサッカー番組を始めます。海外サッカーの歴史や欧州に根付く「ホーム&アウェー」の文化を伝え、自らの経験を生かした解説などで情報発信に務めました。これによって、子どもたちが世界サッカーを知るきっかけができます。結局番組は20年間続き、サッカーの価値や魅力を高める素地となりました。
サッカーのみならず、オリンピックなどスポーツ界の発展に尽力
岡野俊一郎の活躍は、サッカー界だけに留まりませんでした。1974年から日本オリンピック委員会(JOC)常任理事に就任し、1989年には、スポーツの商業主義的な運営の利点を説き、同委員会を日本体育協会から独立させました。1990年からは国際オリンピック委員会(IOC)の委員を22年間務め、スポーツ界の発展に尽力します。1998年の長野五輪招致にも大きく関わりました。また、文京区の教育委員、日本体育大学の顧問、全国ラジオ体操連盟会長も歴任するなど、国民健康増進分野でも更新します。2012年には、サッカー界から初となる文化功労者に選ばれました。
日韓W杯の開催と、日本のベスト16実現の裏にも英断あり
2002年、日韓共催のW杯実現、さらには日本の躍進にも岡野俊一郎の手腕が光りました。1989年当時、トヨタカップの開催実績などから、日本が世界に先駆けて開催国立候補します。その後続いて韓国が手を挙げ、候補と見られていたメキシコが辞退したため、日本と韓国の一騎打ちとなりました。その後FIFA内の権力抗争に発展して、日韓共催が避けられない事態となり、当時のFIFA事務局長が実行委員長だった岡野に救いの手を差し伸べます。日本から共催を受け入れる文書を提示したことで終結し、前例のない共催でのW杯が実現しました。
しかし、肝心の日本代表の調子が上がりません。トルシエ日本代表監督の契約は、2000年6月で見直されることとなっており、一時は解任の方向で進みます。ところが、当時のトルシエは、岡野の持論でもあったA代表の指導者が、年代別代表監督も兼任するというやり方を実践していました。最終決定を一任された岡野は、トルシエと心中する覚悟で続投のゴーサインを出します。するとユース組から小野伸二、稲本潤一、中田浩二が順調に成長し、A代表へスムーズに昇格する流れが確立しました。そして、本番のW杯でも若手とベテランが融合し、見事に初の決勝トーナメント進出を果たしベスト16という結果を得ます。岡野の英断がなければ、こうした結果が得られなかったかもしれません。
晩年、病魔と闘いながらもサッカーの未来を思い、永眠する
70歳で迎えた2002年から、病魔との戦いが始まります。同年、胃がんが見つかり手術を受け、2012年にも肺がんを発症しました。その後も入退院を繰り返し、2016年11月、日本サッカー協会の田嶋幸三会長を病室に呼びます。死期を意識したからか、サッカーの灯を絶やしてはならないことを強く説き、指導者育成に力を入れるように懇願しました。その後も、半世紀にわたって力を注いできたサッカーの過去、未来について語り合います。最後の最後まで、サッカーそして日本スポーツの発展を願い、2017年2月ついに帰らぬ人となりました。