名前 | 本並健治(ホンナミケンジ) |
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生年月日 | 1964年6月23日 |
国 | 日本 |
出身 | 大阪府枚方市 |
プロフィール | 我孫子中3年からサッカーを始め、清風高から大阪商科大に。1年からレギュラーで活躍、選手権3連覇、総理大臣杯2連覇に貢献。1985年のユニバーシアード代表。1986年日本B代表。
1987年松下電器に入社、日本リーグに33試合出場。1992年のナビスコ杯は2試合に出場。1993年Jリーグではガンバ大阪のゴールキーパーとして活躍、同年7月対広島戦で腹部を強打して、左腎破裂で緊急手術。1994年日本代表として3試合に出場。 1997年5月ヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)にレンタル移籍。1998年ヴェルディに完全移籍すると、翌年から正GKとして活躍。2001年現役引退。 2003年から、京都産業大学サッカー部・東海大学付属仰星高等学校サッカー部のコーチ就任。2012年、スペランツァFC大阪高槻監督就任。2016年退任。Jリーグ通算209試合出場、国際Aマッチ 3試合 0得点、大阪商科大学卒。186センチ、82キロ |
中学生から本格的にサッカーを始め、大商大では輝かしい実績
本並健治は、大阪府枚方市に生まれ、活発な幼少期を過ごします。小学生時代は野球漬けの毎日を送りました。中学でもリトルリーグに所属していましたが、3年時友人に誘われてサッカー部に入部します。そして、以後続けていくゴールキーパー(GK)を選択しました。するとすぐさま実力を発揮し、大阪選抜メンバーに抜擢されます。サッカーの名門・清風高校に進学すると、関西有数のGKとして頭角を現し、あらゆる大阪代表に名を連ねました。
大阪商業大学へ進学しても、1年生からレギュラーを奪います。同期のFW望月聡など攻守にタレントが揃い、3年生までに全日本大学サッカー選手権大会3連覇、インカレ3連覇、総理大臣杯全日本大学サッカートーナメント2連覇など輝かしい実績を上げていきました。ユニバーシアード代表にも選出され、A代表の候補者にまで上り詰めます。すでに日本のトッププレイヤーとなり、1986年松下電器産業へ入社しました。
サッカー留学も経験し、Jリーグ開幕を正GKとして迎える
社会人となり、午前中は仕事、午後はサッカーという日々が始まりました。そして、本並健治は、イングランド・プレミアリーグのフルハムへのサッカー留学を経験します。日本と異なる海外サッカーの厳しさを肌で味わい、それを大きな糧としました。
帰国後、JSL1部を戦うチームの一員となりましたが、慶越雄二の控えに甘んじます。しかし、慶越が移籍以降は正GKの座を奪い、1993年のJリーグ開幕を迎えました。空前のサッカーブームの中、自身もガンバ大阪のプロ選手としてピッチに立ち続けます。同年、スーパールーキー松波正信が加入すると、6月から出場してゴールを量産しました。本並も鋭い反応で何度もガンバゴールを死守し、攻撃的な姿勢に抜群のルックスもあって人気選手の一人となります。しかし、GK本並が目立つということは攻め込まれていることを意味し、チームの調子はいいとはいえませんでした。
選手生命を脅かす腎臓破裂を負うも、翌シーズンに完全復活
1993年7月、Jリーグ元年の1stステージの終盤、本並健治は大きなアクシデントに見舞われます。サンフレッチェ広島との試合、後半終了間際のコーナーキックの競り合いで、田口禎則と激突しました。そのまま試合は延長戦に入り、すぐさまVゴールでガンバ大阪は敗戦します。病院へ直行すると、腎臓破裂の重傷と診断され、即手術が施され腎臓を1/4摘出します。もしも延長戦が長引き、病院搬送が遅れていれば、命を失う危険性すらあったほどの大怪我でした。入院3ヶ月さらにはリハビリもあって、同年の2ndステージは欠場となります。しかし1994年の1stステージでは、再びガンバの正GKとしてピッチに立っていました。
日本代表では3試合すべて失点するなど、不本意な成績に終わる
1994年、驚異的な回復力を見せて復活した本並健治は、日本代表にも選出されます。三浦和良や井原正巳など、前年ドーハの悲劇でW杯初出場を逃したトップメンバーの一員として、5月のキリンカップへ挑みました。フランスとの試合で、1-2とリードされた後半に代表デビューを果たします。しかし、緊張からかまさかのトンネルでゴールを許すと、さらに1失点して試合は1-4で敗れました。さらに7月のアシックスカップのガーナ戦2試合にフル出場します。日本は3-2、2-1と連勝しましたが、本並は代表3試合すべてで失点を喫し、以後代表として選出されることはありませんでした。
ガンバそしてヴェルディでも、正GKとして存在感を見せる
ガンバ大阪では、1994年に全44試合中43試合、1995年も全52試合中49試合に出場するなど、完全にレギュラーとして君臨しました。しかしチームは、10位、14位と相変わらず低迷が続きます。1996年シーズンは、前半こそレギュラーを守りましたが、後半は岡中勇人に正GKの座を奪われて、リーグ戦出場は16試合に留まりました。
監督の構想から漏れたとき、タイミングよくヴェルディ川崎から誘いがあり、1997年シーズン途中にレンタル移籍します。初めて大阪の地を離れることになり、同年は11試合に出場しました。オフにガンバからコーチ打診がありましたが、現役にこだわりヴェルディに完全移籍を果たします。1998年は、菊池新吉との争いに敗れわずか1試合の出場に留まりましたが、1999年からはレギュラーを奪い返し、全盛期同様の活躍を見せました。
本並健治は両親ともに日本人ですが、彫りの深さから「浪速のイタリア人」や「浪速のイタリアーノ」と称されていました。そうした日本人離れしたルックスから、1999年のJリーグドリームマッチでは外国人選抜登録選手として出場しました。
指導者に転身し、スペランツァFC大阪高槻監督も歴任
2001年限りで現役を退くと、2003年から指導者として第2のサッカー人生をスタートさせます。京都産業大学、東海大学付属仰星高等学校のコーチを歴任し、2006年にはJFA指導者ライセンスS級を取得しました。
2012年8月、スペランツァFC大阪高槻監督に就任します。かつてはガンバ大阪の前進・松下電器産業がスポンサーとなっており、日本女子代表も多く輩出したチームです。前年の成績でなでしこリーグへの昇格を決め、さらなる奮起を期待して本並健治に白羽の矢が立ちました。現役日本代表だった丸山桂里奈を移籍させてチーム力をアップさせて挑みましたが、初年度は8位に終わります。翌年は、シーズン未勝利で最下位となり、チャレンジリーグ降格と全く歯車がかみ合いませんでした。下部リーグでは即優勝を飾り、なでしこリーグへの復帰を果たすも、2015年からは2年連続で9位に終わり、2016年でチームを去りました。2017年からは、県立白井高等学校サッカー部でも指導しています。