名前反町康治(ソリマチヤスハル)
生年月日1964年3月8日
日本
出身埼玉県浦和市(現在のさいたま市)
プロフィール清水東高校時代は、高校総体2連覇。1990年アジア大会代表選手。

全日空の社員プレイヤーとして、横浜フリューゲルスのMFを務める。1994年2月ベルマーレ平塚に入団し、プロに転向。1998年現役を引退。

サッカー解説者を経て、同年スペインに渡り、FCバルセロナとエスパニョールでコーチ修業。2001年S級ライセンスを取得し、同年J2リーグのアルビレックス新潟監督に就任。2003年、J2で優勝を飾り、チーム初のJ1昇格に貢献。その後も指揮を執り、J1残留を実現させたまま2005年監督を辞任。

2009年湘南ベルマーレ監督に就任し、初年度にJ2からJ1に昇格させる。しかし翌年J2降格し、2011年辞任。2012年松本山雅FC監督(J2)に就任。就任3年目にJ2で3位を確保し、J1昇格を実現。その後J2降格となるも、2017年、監督として6シーズン目に突入。

国際Aマッチ 4試合 0得点。慶応義塾大学卒

幼少期から海外サッカーを経験し、高校時代で一度区切りをつける

反町康治は、埼玉県浦和市で生まれ、静岡県清水市で育つというサッカーに触れ合う環境としてはベストでした。幼少期からサッカーを始め、小学5年にはドイツ、中学2年にはセルジオ越後の紹介でブラジル・コリンチャンスへと海外サッカーを経験します。名門・清水東高校へ進学すると、エースとなり沢入重雄、望月達也らとともに、高校総体連覇を成し遂げました。

しかし、当時プロサッカーリーグがなかった日本において、これ以上トップレベルを維持することは難しいと思い、サッカーから離れる決意をします。高校時代の活躍で推薦入学も可能でしたが、一浪してまで一般入試で慶應義塾大学へ進学しました。そこでもサッカーの実力がばれて部活を続けることになりましたが、ビジネスの世界で戦うことを目標に、実業団への推薦を固辞して、一般受験で全日空(ANA)へ総合職で入社します。同期の中でも出世頭で、パイロットのスケジュール作成などを担当するサラリーマン生活をしていました。

日本でもサッカーがプロ化し、サラリーマンJリーガーとして活躍

全日空には、1987年にJSL2部を制した全日空サッカークラブがあり、1988年からJSL1部で戦いました。正社員である反町康治も、レギュラーメンバーとしてほぼフル出場し4シーズンを過ごします。その間、日本でのプロサッカーリーグ構想が実現し、1993年からJリーグがスタートしました。横浜フリューゲルスとチーム名が変わり、反町康治もレギュラーとなりましたが、所属はANAのままだったこともあり、サラリーマンJリーガーとして名を馳せます。リーグ戦は苦戦しましたが、天皇杯を制するなどチームに大きく貢献しました。

サッカー指導者として戦うことを決意し、海外コーチ留学も経験

プロリーグができたことで、一時は捨て去ったサッカーへの情熱が再燃します。そして、反町康治は、指導者として世界で戦うことを決意しました。1994年ANAを退社すると、ベルマーレ平塚(現:湘南ベルマーレ)とプロ契約を交わします。そして現役時代中に、C級ライセンスを取得していました。もちろん1プレイヤーとしても活躍し、自身としては天皇杯連覇に大きく貢献します。その後も4シーズンをレギュラーとして戦い、1997年で現役引退しました。

その後、解説者として過ごした後、指導者生活を始める前に、スペインにコーチ留学します。FCバルセロナ、アスレチック・ビルバオ、エスパニョールといった名門クラブを渡り歩き、コーチについての知識やスキルを習得しました。

アルビレックス新潟監督として、クラブ史上初のJ1昇格を実現

2001年、監督就任に必要なS級ライセンスを取得すると、すぐさまチャンスが訪れます。同年36歳にして、当時J2だったアルビレックス新潟監督に就任しました。1991年の創設以来、着実に力をつけており、J2からJ1への昇格を目指します。かつて所属したJ1とは環境や待遇が大きく異なるため、苦労しながらも就任から2年を4位、3位とチーム力を安定させます。そして勝負の3年目、横浜フリューゲルス時代の同僚だった山口素弘らが加わると、観客を魅了する攻撃的サッカーが実を結び、J2優勝して念願のJ1昇格を実現しました。

そしてJ1昇格後も、引き続き監督として手腕を発揮します。昇格組がJ1で苦労して即降格することが多い中、アルビレックスをJ1に留めました。特に昇格1年目は1stステージを16チーム中の14位で終えて苦しい状況でしたが、2ndステージでは7位と躍進します。続く2005年シーズンも、年間12位とJ1残留に導き、同年限りで監督を辞任しました。

U-23日本代表監督として北京五輪を戦うも、3戦全敗に終わる

2006年からは、北京五輪を目指すU-23日本代表監督に就任します。アジア予選では、カタール、サウジアラビアと三つ巴の争いとなりましたが、1位で通過し4大会連続の出場権を確保しました。アメリカ、ナイジェリア、オランダと同組となった本大会、重要視していた初戦のアメリカ戦に敗れると、流れを取り戻せず無念の3戦全敗で予選リーグ敗退します。しかし、レギュラーとして起用した本田圭佑、香川真司、岡崎慎司、長友佑都、内田篤人らは、A代表でも常連選出されるメンバーとなりました。

湘南ベルマーレで、再びJ1昇格を実現するも、快進撃は続かず

その後しばらく解説者生活をしていましたが、2009年から古巣・湘南ベルマーレの監督に就任します。1999年にJ1で最下位を喫して以降、9シーズンJ2で喘いでいました。しかし、新潟監督時代に育てたメンバーなどで補強し臨むと、開幕5連勝とスタートダッシュに成功します。3試合を残してベガルタ仙台とセレッソ大阪のJ1昇格が決まり、残る1枠を、ヴァンフォーレ甲府と最終節まで争いました。そして運命の最終戦、2失点するも逆転で勝利し地力での3位を確定させます。実にJリーグ最長となる 11シーズンぶりのJ1復帰を果たしました。

新潟時代同様、J1昇格後の残留を目指して、継続してチームの指揮を執ります。しかし、守備陣に負傷者が相次ぎ、21試合連続未勝利かつ82失点というリーグワーストの記録を作り、わずか1年でJ2へ逆戻りとなりました。翌シーズンも雪辱を晴らすため監督として立て直しを図ります。しかし、2年前とは打って変わって優勝争いに加わることなく14位に終わり同年で監督を退きました。

松本山雅FC監督として、自身3度目となるJ1昇格を実現

時をおかず、2012年からはJ2松本山雅FCの監督に就任します。山雅サッカークラブ時代から歴史は古く、2004年以降、北信越2部、1部、JFL、J2と着実に上昇しているチームでした。そして、そこから引き継いだ反町康治は、チームをトップリーグにまで押し上げます。1年目から12位、7位と順位を確実に上げて、3年目の2014年は2位で念願のJ1昇格を実現しました。自身としては新潟、湘南に続く3チーム目のJ1昇格です。

しかし、永遠の課題である昇格直後のJ1では戦力差を埋められず、18チーム中の16位で再びJ2降格を味わいました。2016年も指揮を執り、2位の清水と勝ち点84で並びながらも得失点差で下回り、自動昇格を逃します。2017年は、自身監督として最長の6年目のシーズンを向かえ、再びのJ1復帰を目指しています。


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