名前安永聡太郎(ヤスナガソウタロウ)
生年月日1976年4月20日
日本
出身山口県宇部市
プロフィール上宇部中学2年時に全国中学校大会に出場。チームは2回戦で敗退するが優秀選手に選ばれる。全日本選抜中学生大会では中学選抜のCFとして優勝に貢献。ユース候補東西対抗戦でも高校生に混じって西軍のFWとしてハットトリックを達成するなど活躍。

清水商に進み、1年でレギュラー入り。2年時は全日本ユース、全国選手権優勝、3年時の1994年全日本ユース、インターハイで優勝。個人的にも2年時から全日本ユースに選ばれ、ユース代表がアジア選手権で準優勝した際の中心的FW。

1995年横浜マリノスに入団。アトランタ五輪代表にも選ばれたが、予選大会で負傷し、本大会には出場できなかった。1997年7月〜1998年5月スペイン2部リーグのレリダに期限付移籍。

1999年清水エスパルスに入り、Jリーグ第2ステージ初優勝に貢献。2001年10月〜2002年1月横浜Fマリノスに期限付移籍。2002年、再びスペインへ渡り、フェロルへ移籍。2003年、横浜Fマリノスへ復帰もレギュラーを奪えず、2005年柏レイソルで現役引退。

引退後は指導者に転身して、2016年4月には、脳性麻痺7人制サッカー(CPサッカー)日本代表監督就任。同年10月からSC相模原(J3)監督に就任。突破力、シュート力ともに卓越した得点感覚を誇る大型ストライカー。

清水商業卒、178センチ、75キロ

超高校級FWとして名を馳せて、横浜マリノスへの入団が決定

安永聡太郎は、山口県宇部市に生まれ、中学時代からサッカーで目立つ存在でした。卒業後は九州の国見高校への進学が決まるほど、当時の小嶺忠敏監督に見初められます。しかし、中学3年時、地域ユース対抗戦に選ばれて、高校生に混じって出場すると自身はハットトリックを達成してチームを勝利に導きました。すると清水商業高校の大滝雅良監督が話を聞きつけ、進学にむけての強い説得が始まります。そして父親の進めもあって、清水商業へ進みました。

高校生でもその実力は突出しており、1年生からレギュラーの座を掴みます。そして2年では、FWとして全国高等学校サッカー選手権大会でチームを優勝に導きました。さらに3年では2回戦敗退しましたが、高校総体優勝、全日本ユースでは連覇と輝かしい実績をあげます。当然、Jリーグチームからも注目され、当初は故郷近くを本拠地とするサンフレッチェ広島の内定を得ました。しかし、その後横浜マリノスからも誘いを受け、海外留学を条件にマリノスへの入団が決まりました。

マリノス入団後、U-20日本代表としてワールドユースベスト8

1995年、横浜マリノスに入団すると、U-20日本代表に選出されて、FIFAワールドユース選手権へ臨みます。同大会には、中田英寿、松田直樹ら後にA代表常連メンバーも揃い、この世代としては初めて世界と渡り合い、初のベスト8進出を果たしました。そして安永聡太郎もFWとして全4試合にフル出場し、得点も決めます。こうした活躍で、一つ上のカテゴリー五輪代表候補に名前が挙がり、海外留学は先延ばしとなりました。

そして同年6月にJリーグデビューを飾ります。チームは初の1stステージ優勝、そして年間総合優勝を飾るなど絶好調でした。しかし前線はダビド・ビスコンティ、ラモン・メディナベージョの外国人コンビでの出場が多くなります。結局、同年の安永はほとんどが途中出場となり28試合出場するも、得点はわずか1点に終わりました。

救世主として名前が挙がるもアトランタ五輪最終メンバーから落選

1996年、アトランタ五輪アジア最終予選が始まり、安永聡太郎は日本代表メンバーに選出されました。キャプテン前園真聖、GKには川口能活、中盤には中田英寿、FW城彰二などが中心となって、28年ぶりとなる本戦出場にたどり着きます。しかし、最終予選直前の合宿で、FW小倉隆史を怪我で失うという日本にとって痛すぎるアクシデントがありました。予選は乗り切ったものの、強力なFWが必要な状況に変わりはありません。若いとはいえ、前年にワールドユース選手権で世界サッカーと触れ合っていた安永に、その穴埋めとして期待がかかったのは当然でした。しかし、最終メンバーに安永の名前は刻まれません。そして、後にマイアミの奇跡といわれたブラジル撃破の歓喜の輪には、加われませんでした。

初めての海外挑戦で、フィジカルの強さを身につけて帰国

Jリーグでも、1996年からさらに出場機会が減り、活躍できませんでした。そして、1997年からは入団時に取り付けていた海外挑戦を実現します。安永聡太郎は、スペインへ渡り、UEリェイダの一員となりました。フィジカルコンタクトがあまりにも強い環境に驚きつつ、格闘技に近いサッカーを楽しみます。当初は半年の予定でしたが延長されて合計1年となり、34試合に出場して4得点をあげました。その後もスペイン残留を望みましたが、期間が満了し古巣マリノスへ復帰します。シーズン途中からの復帰でしたが、19試合に出場して6得点と海外留学の成果を早速披露していました。

やっとレギュラーを獲得するも、以後チームと衝突を繰り返す

1999年、清水エスパルスと交渉が成立し、完全移籍となります。するとマリノス時代は、叶わなかったレギュラーを奪い、全30試合中29試合に出場して5得点をマークしました。同年は、2ndステージで、クラブ初のステージ優勝を実現と、自身の活躍が初めてチームの成績につながります。翌年、ゴール数こそ3点でしたが、レギュラーとして活躍しました。

しかし2001年、新監督についてマスコミを通じて批判したことで、1ヶ月間の謹慎処分を受けます。そしてその後は、残留争いに苦しむ古巣マリノスへ復帰しましたが、ここでも衝突がありました。結果的に、2002年シーズンからは、再び戦いの場をスペインに移します。あわただしくスペインリーグ2部のラシン・デ・フェロールへ来ると、請われて来たのではなく、テストしてよければ移籍という話でした。何とかパスして、チームに残ると、そのまま出場を繰り返し、首脳陣からは高評価を得るまでに地位を高めました。

マリノスへ復帰するも活躍できず、レイソルで現役引退

2003年、古巣マリノスの監督に元日本代表監督の岡田武史が着任すると、再び安永聡太郎に復帰要請があり帰国します。しかし、同タイミングで、日本代表FW久保竜彦も加入し、出場機会は限られました。チームはリーグ連覇を果たす中、自身は1ゴールに終わり、2004年に戦力外通告を受けます。2005年、柏レイソルと契約して、奮起が期待されましたが、8試合出場に終わり同年限りで引退を表明しました。

指導者として、2016年からはSC相模原の監督に就任

引退後は指導者に転身し、日本サッカー協会が進めているJFAこころのプロジェクト(ユメセン)の専属講師として活躍します。2016年4月には、脳性麻痺7人制サッカー(CPサッカー)日本代表監督に就任し、同年8月からはJ3で戦うSC相模原の監督に就任しました。初年度はリーグ戦11位に終わりましたが、2017年も監督として2年目を迎えています。同チームには、かつての同僚・川口能活が現役選手としてプレーしています。

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