名前 | 三浦文丈(ミウラフミタケ) |
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生年月日 | 1970年8月12日 |
国 | 日本 |
出身 | 静岡県清水市 |
プロフィール | 三保一小2年生でサッカーを始め、3年生の時清水FCに入部。6年生の時全日本少年大会で優勝。
清水五中では全国中学校大会で準優勝、清水商では3年生の時キャプテンを務め、高校選手権で優勝。筑波大では4年生の時関東選手権総理大臣杯、関東大学リーグの三冠を達成。この間、ジュニアユース、ユース代表、バルセロナ五輪予選代表も経験。 1993年横浜マリノスに入団。豊富な運動量と巧みなパスワークで1年目からチームの右サイドのMFとなる。1995年副主将となるが、負傷で出場できず、その後はスーパーサブとしてチームに貢献。 1999年京都パープルサンガに移籍、2001年FC東京に移籍。2002年開幕直後の怪我でシーズンを棒に振る。2004年クラブ初タイトルのナビスコカップ優勝に貢献。2006年限りで現役引退。 その後FC東京のコーチ、アルビレックス新潟のコーチを経て、2016年はAC長野パルセイロ監督に就任。しかしリーグ2位を死守できず退任。2017年、アルビレックス新潟監督に就任するも、開幕10試合で1勝のみと低迷し休養、後正式に辞任。 Jリーグ295試合出場37得点。筑波大学卒。174センチ、72キロ |
アマサッカーエリートコースを歩み、各年代で優勝を経験
三浦文丈は、サッカーが盛んな静岡県清水市で生まれ、小学2年生からサッカーを始めます。3年生から名門・清水FCへ入団すると、6年生で早くも全国制覇を成し遂げました。中学校時代は、惜しくも全国中学校大会準優勝に終わります。強豪・清水商業に入学と同時にジュニアユース代表に招集されて、チームのキャプテンに抜擢されました。全国高等学校サッカー選手権大会では、1年、2年と県代表になれませんでしたが、主将となった3年、後輩にも藤田俊哉、名波浩、山田隆裕らが揃い、ようやく初出場を決めます。さらに本戦でも3回戦で直接FKを決めるなど、一気に全国優勝まで駆け上がりました。
この時点でJリーグクラブから多くのオファーを受けましたが、筑波大学へ進学します。高校時代同様、キャプテンに就任した4年には、関東選手権、関東大学リーグ、総理大臣杯と3冠を達成しました。在学中に、バルセロナ五輪日本代表にも選出されます。アジア最終予選ではバーレーン戦でハットトリックを達成しましたが、日本の勝利はその1勝のみに終わり、本大会出場を逃しました。
横浜マリノスへ入団すると、攻撃的MFとして即レギュラーに定着
1993年、Jリーグ開幕元年に、横浜マリノスへ入団します。歴史的なヴェルディ川崎との開幕ゲームこそ出番がありませんでしたが、2戦目にJリーグデビューを果たしました。1年目は、FWや攻撃的MFとして24試合に出場し5得点をマークします。2年目は、完全にレギュラークラスとして38試合に出場し、攻撃の中心として欠かせない存在となりました。同年は初のハットトリックを達成するなど8得点とゴール数も増やします。さらに3年目はチームのサントリーシリーズ、そして年間優勝に大きく貢献しました。
アマ時代にキャプテンを歴任しており、マリノスでも若くして精神的支柱となります。またそのキャプテンシーで、1996年からは2年間日本プロサッカー選手会の監事も務めました。チームでも、豊富な運動量を武器にピッチを縦横無尽に走り回り、多くの試合に出場します。しかし、1997年はリーグ戦総合3位、ナビスコカップ、天皇杯でもタイトルには届きませんでした。
中村俊輔の台頭でチームを移籍するも、レギュラー奪取できず
プロ6年目の1998年、三浦文丈の出番は一気に減って18試合となります。ポジションでかぶる2年目の中村俊輔が一気に頭角を現したのでした。中村は左足から放たれるFKも強力で、マリノス攻撃の司令塔としてはずせなくなります。すると、三浦は同年限りでチームを退団し、入団時マリノスを率いていた清水秀彦が監督を務める京都パープルサンガへと移籍しました。
しかし、1999年前半で清水監督が退任すると、自身もシーズン途中でジュビロ磐田への移籍が決まります。当時のジュビロは、毎年優勝を争う常勝軍団となっておりレギュラーの壁も当然厚いものでした。特に中盤は、高校時代の後輩・藤田俊哉、名波浩らが固めています。2000年、21試合出場と意地を見せましたが、レギュラー奪取とまではいきませんでした。
FC東京で中盤のレギュラーを確保するも、大怪我で戦線離脱
2001年からは、前年に初めてJ1を戦ったFC東京へ移籍します。比較的若いチームにおいて、三浦文丈は存在感を発揮し、攻守の基点となります。移籍1年目は、リーグ戦30試合中27試合に出場して、J2降格圏内に陥ることなくチームを安定させました。しかし、2002年、開幕直後の浦和戦で福田正博と激突し、左膝前十字靭帯断裂及び内側側副靱帯を損傷する重傷を負います。長期離脱は避けられない状態となり、以後のリーグ戦は棒に振りました。せっかく奪ったレギュラーの座を明け渡したくないため、年末の天皇杯で復帰します。しかし、まだ完治しておらず自らピッチを去るという場面もありました。
FC東京の精神的支柱として君臨し、クラブ初タイトル獲得
2003年、しっかり怪我を治してピッチに復帰を果たします。同年は、26試合に出場するなどレギュラーを取り戻し、チームの年間最高位4位実現に貢献しました。33歳とベテランの域に差し掛かると、同年から徐々に出場機会を減らしていきます。それでも、2004年にはナビスコカップで意地を見せました。日本A代表やU-23日本代表などで選手層が薄い中、自身も7試合に出場して決勝戦まで駒を進めます。そして決勝で初めてベストメンバーを組み、クラブ初タイトルとなる優勝を実現しました。
2005年からは14試合、9試合と出場機会が減り、初めて2シーズン連続でノーゴールに終わります。まだJ2など下位クラブでの働きは期待できましたが、愛着あるチームでの引退を望み、同年限りでユニフォームを脱ぎました。
指導者に転身後、S級ライセンスを取得して監督にも挑戦
引退後は、そのままFC東京に残り、2年間コーチとして過ごしました。その後は、古巣の横浜F・マリノスへ10年ぶりに復帰し、若手育成中心に指導を続けます。またこの間、あわせて、A級コーチジェネラルライセンスとS級ライセンスを取得して、さらに指導者としての体制を整えました。
そしてアルビレックス新潟コーチを2年歴任後、2015年からはアビスパ福岡のコーチとして、チームのJ1昇格に貢献します。そして、2016年はAC長野パルセイロの監督に就任しましたが、目標の2位死守ができなかったため退任しました(チームは3位)。2017年からは、コーチ時代、成果を収めたアルビレックス新潟監督に就任しましたが、開幕10試合でわずか1勝と極度の成績不振で途中休養から、辞任となりました。