長州力について

名前長州力
生年月日1951年12月3日
日本
出身長崎県徳山市
プロフィール桜が丘高時代からレスリングを始め、専修大時代全日本チャンピオンとなり、昭和47年ミュンヘン五輪に出場。48年新日本プロレスに入る。

49年8月長州力と改名、54年北米タッグ、57年8月UWA世界ヘビー級シングル・タッグの2冠を獲得。

58年4月にはWWFインタ・ヘビー級を奪うがのち奪回される。59年新日本プロレスを脱退、ジャパンプロレス軍団を結成し、全日本プロレスで活躍するが、62年ジャパンを除名になり、新日本のマットに戻る。平成8年G1クライマックスで初優勝。現場を仕切るプロデューサー的役割も手掛けながら、新日本プロレスの屋台骨を背負った。

10年1月引退するが、12年7月現役復帰。得意技はサソリ固め、リキ・ラリアット。

アマレスで実力発揮。五輪選手に

長崎県で生まれ育った長州力ですが、子供の頃はレスリングをするのではなく、野球と柔道をたしなんでいました。中学生になると柔道で頭角を現していった長州は高校進学の際、たぐいまれな才能を見いだされ、レスリング部の特待生として入学。高校生になってから本格的にレスリングを始めた長州ですが、すぐにその才能を発揮していきます。

レスリングに打ち込んで早3年、高校3年生になった長州はインターハイに出場するほどの選手になっていました。73キロ級で出場した長州はこの大会で準優勝、さらに地元・長崎国体のフリースタイル75キロ以上級では優勝を飾ります。レスリング歴3年という短いキャリアでこれだけのタイトルを獲得した長州はたちまちレスリング会の注目を集めるようになります。

そうして迎えた大学進学。長州を獲得しようとレスリング部のある大学は多数名乗り出ますが、その中で長州が選んだのは専修大学。アマレスでは最強と称される大学へ進学しさらに腕を磨くことになりました。

期待の新人だった長州は1年生時から試合で活躍し、2年生になった71年には全日本大学選手権のグレコローマン90キロ級で優勝を飾り、大学初タイトルを獲得。この活躍が認められた長州は翌72年、ミュンヘンオリンピックのレスリング代表選手に選出されます。

大学ラストイヤーとなった73年、長州はキャプテンに就任すると、後輩指導も熱心に行い、さらに全日本選手権ではフリースタイルとグレコローマンの2冠を獲得。この時の長州の体重はすでに100キロ超え。レスラーとして堂々たる体躯を持つようになっていました。

雌伏の時を経て、革命戦士に

オリンピック出場、全日本選手権制覇など輝かしい実績を残してきた長州力。当然進路が注目されることになりますが、長州は大学卒業後の74年、新日本プロレスへと入団することになります。前年に鶴田友美(のちのジャンボ鶴田)のように「アマレスのエリートレスラー」のプロ転向はプロレスファンを大いに喜ばせることになります。

ところが、期待されていた長州の人気はさっぱり。リングネームを「長州力」に変えて臨んでも変わりませんでした。というのも、長州がデビューしたころはいあゆる精悍なプレースタイルの藤波辰巳や木村健悟らの方が人気を集め、やや地味に映る長州のプレースタイルはファンからは婦兵衛下。そのため、長州は「期待のアマレスエリート」から脇役の一人へと大きく格下げとなってしまいます。

この状況を打破すべく、長州が敢行したのはメキシコ武者修行。もともとレスリングの実力は優れていた長州は現地でも活躍し、81年にUWAヘビー級ングル・タッグの2冠を獲得し、翌82年にはWWFインタ・ヘビー級を奪うという目覚ましい活躍を挙げていました。

やがて日本に戻ってきた長州ですが、それでも扱いは藤波辰巳の下。これに発奮した長州は「藤浪、俺はお前のかませ犬じゃない」と発言。これがプロレスファンから大きく注目されるキッカケになり、長州はいつしか「革命戦士」というキャッチフレーズで知られるようになり、藤波との名勝負はプロレスファンの間で伝説になっていきました。

ジャパンプロレス旗揚げ、全日へ参戦も

ブレイクした長州力は84年に新日本プロレスを脱退し、ジャパンプロレスを旗揚げします。新日本プロレスに対して最初の造反とも言える行動をとります。全日本へ長州が参戦することになったため、プロレスの中継がゴールデンタイムに決まるなど、プロレスブームの火付け役になります。

85年になると長州はジャンボ鶴田、天龍源一郎らとの全日本所属レスラーと対戦。特に鶴田との一戦はいまだに語り草となり、この年のベストバウドに選ばれるほど。またこの頃から長州はブルーザー・ブロディ、ハーリー・レイス、ドリー・ファンク・ジュニアらの海外の強豪選手との対戦も増え、ファンをさらに沸かせるようになります。

86年には谷津嘉章とチームを組んだ長州は鶴田、天龍の鶴龍コンビを破ってインターナショナル・タッグ王座を奪取し、このタイトルを巡って外国人レスラーとの対戦も増加し、ますます話題になることが増えました。

新日本へ復帰。プロデューサーとして実力発揮

ジャパンプロレスを旗揚げし、全日本へ参戦するようになって地位を築いた長州力。しかし、師匠のマサ斉藤とアントニオ猪木との抗争を開始したことが長州の運命を大きく変えることになります。

86年の4月に斉藤と猪木の試合が行われましたが、この時に長州はセコンドには付けず、リングサイドで試合を観戦することを余儀なくされました。これが契機となって新日本へ復帰も考えられましたが、88年まで復帰を待たなければなりませんでした。

復帰後の長州は96年のG1クライマックスで初優勝を飾りますが、現役選手というよりも現場を仕切るプロデューサー的役割も手掛けることが増えていきました。そうして長州は新日本プロレスの屋台骨を背負っていくようになり、プロレスの隆盛に一役買いました。98年に長州は一度引退しますが、2000年の7月に現役復帰。今もなお、長州はマットの上で活躍を続けています。

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