遠藤保仁について

名前遠藤保仁
生年月日1980年1月28日
日本
出身鹿児島県鹿児島市
プロフィール兄の拓哉、彰弘とともに遠藤三兄弟の末弟として注目され、守備面の状況判断力とパス能力に優れる。1995年全国高校サッカー選手権大会で優勝。1996年高円宮杯全日本ユースサッカー選手権大会で優勝。U-16、U-18、U-19、U-20、U-22、U-23日本代表。1999年U-20世界ユース選手権メンバー。2000年日本代表A代表候補に初選出され、2002年ジーコジャパンの時に初招集。

1998年横浜フリューゲルスに入団。同年12月京都パープルサンガ(現、京都サンガF.C.)を経て、2001年ガンバ大阪に移籍し現在も在籍。(2017年7月現在)Jリーグベストイレブンには計15回選出。AFCチャンピオンズリーグ2008MVP、2009年AFCアジア最優秀選手賞、そして2014年Jリーグ最優秀選手賞を受賞。
178センチ、75キロ。

遠藤三兄弟としてプレー。高校選手権優勝の立役者に

後に日の丸を背負ってプレーすることになる遠藤保仁ですが、鹿児島に住んでいる頃からその存在は全国区でした。兄の拓哉、彰弘らとともにサッカーを始めた遠藤はすくすくと成長し、遠藤三兄弟として注目される存在になりました。高校に入学するころには鹿児島屈指の強豪校、鹿児島実業に入学し、1年生だった95年の全国高校サッカー選手権大会で見事にチームを優勝に導きます。

翌96年にはチームを高円宮杯優勝に導きます。連覇を狙った2年生時の全国高校サッカー選手権大会はベスト8で終わりましたが、この年に遠藤はチームにいたコーチ、ジョセ・カルロスの勧めでサッカーの本場ブラジルに1ヵ月間留学しました。ここで遠藤はのちのサッカーのプレースタイルを固めることになります。さらに97年にはU-18日本代表にも選出されました。

ガンバ大阪入団で本来の実力が開花

高校卒業後、遠藤保仁は当然のようにJリーグでも期待の新人選手として、どのチームに入るかがファンにも注目されるようになります。そして98年、遠藤は横浜フリューゲルスに入団しました。当時の監督であるカルロス・レシャックからもその才能を高く評価され、開幕戦から遠藤はスタメン出場を果たします。

1年目にして16試合に出場するなど、ルーキーにしては順調な滑り出しを見せた遠藤ですが、ここでチームがまさかの解散という事態に陥ります。行き場をなくした遠藤は翌99年、京都パープルサンガへ移籍します。ここでも遠藤はレギュラーとして活躍しましたが、肝心のチーム成績が低迷し、00年にはJ2へと降格してしまいました。この結果、遠藤は01年にガンバ大阪へと移籍しました。

各地で活躍していながら今一つスポットが当たらなかった遠藤ですが、3チーム目となるガンバ大阪では中心選手として大活躍。すぐさまレギュラーに定着します。そしてこの年には当時の日本代表監督ジーコによって、A代表に初招集され、11月のキリンチャレンジカップ・アルゼンチン戦で初出場を果たすなど、活躍し始めた年となります。この試合を皮切りに遠藤は日本代表でも欠かせない選手へとなっていきました。

またガンバ大阪でも03年に遠藤は自身初となるJリーグベストイレブンのタイトルを獲得し、05年にはJリーグ優勝を決めるゴールを放つなど、ガンバ大阪の中心選手として遺憾なく実力を発揮していきました。

06年はドイツワールドカップのメンバーに選出されましたが、前年にコンバートされた中田英寿の起用によって遠藤は控えに回ることになり、本選での遠藤の出場はありませんでした。そして日本代表は予選リーグで敗退するなど散々な結果に終わりました。

南アフリカW杯で決勝リーグ進出に貢献

06年の遠藤保仁はガンバ大阪では二川孝広、橋本英郎に加えこの年新加入した明神智和らとともにガンバの攻撃陣を牽引し、ドイツワールドカップ後は日本代表新監督のイビチャ・オシムに見初められ、中田英寿がつけていた背番号7を引き継いで文字通りの司令塔としてのポジションが与えられました。

ところが、遠藤は10月に行った日本代表でのインド遠征中にウイルス性肝炎を発症してしまいます。そのため、ガンバ大阪でのシーズン終盤は1ヶ月以上の戦線離脱を余儀なくされてしまいました。翌07年に遠藤は復活すると大きな故障もなく、シーズンフル出場を果たし、チームをナビスコ杯優勝へと導きました。

翌08年に日本代表の監督がオシムから岡田武史に交代すると、遠藤のポジションはオフェンシブハーフから長谷部誠とのダブルボランチへとコンバートされます。攻撃性の高い遠藤のこの起用はファンからも賛否両論ありましたが、これが正しかったことが10年の南アフリカワールドカップで証明されました。

迎えた10年の南アフリカワールドカップ、遠藤は全試合でスタメン出場、司令塔として活躍し、岡田監督から「チームの心臓」とも称される活躍を見せます。中でも遠藤のハイライトとなったのは6月25日のグループリーグ第3戦のデンマーク戦。ここで遠藤は直接フリーキックを決めてワールドカップ初得点を挙げ、4試合トータルでチーム1の走行距離を記録するなど、日本代表初のアウェーでのベスト16入りに大きく貢献しました。

ワールドカップ終了後も、国内リーグ復帰初戦となった浦和レッズ戦ではゴールを飾るなど安定した成績を残しました。

翌11年、遠藤は故障もありながら試合に出場し、11月の試合でJ1通算400試合出場を達成します。12年からはガンバ大阪の副主将に就任し、チームを引っ張っていく存在になりました。ただしここからガンバ大阪は失速し、13年にはまさかのJ2へ降格してしまいます。遠藤にとっては00年の京都パープルサンガ(現、京都サンガF.C.)以来のJ2所属となりました。

14年ブラジルW杯出場。国際Aマッチ150試合出場も

屈辱のJ2降格を味わった遠藤保仁ですが、ガンバ大阪の中心選手としてプレーすることは変わらず、13年からは主将にも就任します。そして、わずか1年でチームをJ1へと復帰させました。翌年14年にはブラジルワールドカップとの出場と並行しての過密スケジュールでコンディションを大きく崩しますが、チームへの献身的な貢献を見せました。

しかし、日本代表はブラジルワールドカップでは予選敗退という結果に終わります。一方、ガンバ大阪はワールドカップ前に再び降格圏内の順位に落ちてしまいましたが、復帰後のチームは躍進し、ナビスコ杯を制覇しました。さらにこの年には自身初のJリーグ最優秀選手賞(MVP)も獲得しました。

その後も遠藤の活躍は続きます。15年にはACFアジアカップ2015のメンバーに選出されて、パレスチナ戦では三浦知良が持っていた最年長ゴール記録を34歳11か月に更新という快挙を成し遂げます。さらに第2戦目のイラク戦で国際Aマッチ150試合出場を果たし、通算試合出場数152試合は現在では歴代1位の記録です。

日本代表として日の丸を背負い、3度のワールドカップ出場を果たした遠藤は、37歳現在も現役選手としてガンバ大阪でプレーを続けています。(2017年7月現在)

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