名前森岡隆三(モリオカリュウゾウ)
生年月日1975年10月7日
日本
出身神奈川県横浜市
プロフィール幼稚園からサッカーを始める。横浜市のもえぎ野小学校と地元のYMCAでプレーし、桐蔭学園中、同高へ進学。高校3年生の時、ユース代表候補に選出される。

1994年鹿島アントラーズに入団。1995年清水エスパルスにレンタル移籍。1996年正式移籍し、アルディレス監督の下で急成長を遂げる。

1999年3月対ブラジル戦で日本代表デビュー。2000年シドニー五輪ではオーバーエイジ枠で代表となり、予選リーグ突破に貢献。元はセンターバックだが、サイドバックやリベロも務め、日本代表の守りの要。

2000年フラット3の要としてアジアカップ優勝、2001年FIFAコンフェデレーションズカップ2001準優勝の立役者となる。2002年日韓W杯初戦に出場するも、同試合で怪我を負い、以後の試合を欠場。

2003年から再びエスパルスのレギュラーとして君臨するも、2006年出場機会が激減。2007年からはJ2の京都パープルサンガへ移籍。同年はキャプテンとして、チームのJ1復帰に貢献。しかし2008年若手の台頭もあってポジションを奪われ同年引退。

引退後は指導者に転身。S級ライセンスを取得すると、2015年から京都U-18監督を2年間務め、2017年からはガイナーレ鳥取(J3)監督に就任。国際Aマッチ 38試合出場0得点、桐蔭学園高卒、180センチ、71キロ

桐蔭学園で李国秀監督に出会い、DFに転向して頭角を現す

森岡隆三は神奈川県横浜市で生まれ、兄の影響で幼稚園時代からサッカーボールを蹴り始めました。小学1年生から、「青葉台YMCA」のクラブに入ります。そして中高一貫の桐蔭学園中学を一般受験でクリアし入学しました。桐蔭高校に進学後、サッカー部に入ろうとしますが、入部することすら困難を窮めます。というのも当時の桐蔭高校は、李国秀監督の下、全国からスカウトされた精鋭たちしか簡単に入部を許されませんでした。

同級生に廣長優志、山田卓也、米山篤志らタレントが揃う中、中学からあがった森岡ははいつくばって練習についていき、監督にMFからDF転向を言い渡されると一気にレギュラーを掴みます。そして1年から全国高等学校サッカー選手権大会に出場しました。優勝候補と目されながら、1年時は国見高校に、2年時には山城高校にPKで敗れます。そして3年では、まさかの神奈川県予選敗退という屈辱を味わいました。

移籍した清水エスパルスで、DFとして固定されタイトル獲得

卒業後の1994年、鹿島アントラーズへ入団しました。同級生の廣長優志がヴェルディ川崎で早期デビューし、レギュラーまで奪取しているのに対し、自身は8月にようやく初出場を果たします。しかし、両足のすねを疲労骨折してシーズンを棒に振るという最悪のJリーグデビューとなりました。

2年目の1995年シーズンもほとんど活躍できずにいると、清水エスパルスへのレンタル移籍が決まります。これは森岡にとっては吉と出ました。一気にレギュラークラスの扱いを受けて25試合出場すると、1996年には完全移籍となります。同年のリーグ戦は10位と不本意でしたが、ナビスコカップでは全16試合に出場し、自らも決勝でPKを決めるなどチームの初タイトル獲得に大きく貢献しました。その後は、チームのセンターバックに固定されて常時出場し、1998年リーグ戦3位、天皇杯準優勝、ナビスコカップベスト4、1999年には、2ndステージで初の優勝などを実現します。1999年は、自身初のJリーグベストイレブンに輝くなど飛躍の年となりました。

トルシエ日本代表監督が提唱する「フラット3」象徴として活躍

こうした活躍は、日本代表選出の足がかりとなり、森岡隆三は世代交代を巻き起こします。1999年3月、ブラジル戦で代表デビューを果たしますが、それまで守備の要だった井原正巳との交代起用でした。当時のトルシエ日本代表監督は、戦術にフラット3というディフェンスラインを提唱しており、森岡はその象徴的存在となっていきます。

トルシエは、A代表とあわせてU-23サッカー日本代表監督も兼任しており、シドニー五輪を目指す戦いでも当然フラット3を使いました。12試合無敗で本戦出場を決めると、オーバーエイジ枠を使い、森岡、三浦淳宏、楢崎正剛をメンバーに招集します。そしてフラット3の要でありキャプテンだった宮本恒靖に代わって森岡を起用し、ベスト8という好結果を招きました。

日韓W杯初戦で怪我を負い、以後の試合は無念の欠場

シドニー五輪後のアジアカップでも、森岡隆三が中心となってフラット3を形成し、2大会ぶりに日本に優勝をもたらします。全6試合に出場して、最優秀DFにも選出されました。清水でも当然のようにレギュラーを務め、2001年天皇杯優勝に大きく貢献します。そして同年のFIFAコンフェデレーションズカップ2001でも、フラット3がチームに馴染み、準優勝という確かな成果を挙げました。

日本代表でもキャプテンを務めていた森岡は、そのまま調子を維持して、2002年日韓共催W杯へ臨むところでした。しかし2002年3月に肉離れを起こして長期離脱を強いられます。それでもトルシエの信頼は絶大であり、完治とともに代表に復帰し、大一番ではキャプテンとしてピッチに立ちました。そして初戦のベルギー戦で引き分けて日本はW杯初の勝ち点を獲得します。ところが同試合で、森岡は負傷してしまい、ポジションとキャプテンを宮本恒靖に譲らざるを得なくなりました。シドニーとは逆の立場となった宮本は、その後フラット3の中央を務め、日本のW杯ベスト16入りに大きく貢献します。森岡は最も大事な場面でピッチに立つことができませんでした。

移籍した京都パープルサンガでJ1復帰を成し遂げて現役引退

2002年のリーグ戦は怪我の影響もあって、わずか3試合の出場に終わりました。しかし2003年からは、再びエスパルスのレギュラーとして復帰します。当時、チーム状況は芳しくなく、ステージごとに監督が代わるという状態で下位を低迷しました。森岡隆三自身も、2005年に、苛立ちから競技場の壁を破損させたことで3試合の出場停止処分を受けるなどイライラが続きます。翌年には、レギュラーも剥奪されて10試合出場に留まり、出場機会を求めて移籍を志願しました。

2007年から、京都パープルサンガへ移籍し、初のJ2でのプレーを開始します。いきなりキャプテンに就任すると、自身も22試合に出場して安定した戦いをキープしました。そしてJ2で3位を死守し、入れ替え戦でも広島を下し、1年でのJ1復帰に大きく貢献します。移籍2年目は、J1残留を目指しての戦いとなりましたが、若手にポジションを奪われ7試合の出場に終わり、同年での引退を決意しました。

指導者に転身すると、2017年からはガイナーレ鳥取監督に就任

引退後は京都に残り、指導者生活をスタートさせます。その後、A級コーチジェネラル、S級ライセンスを取得すると、2015年、京都U-18監督に就任しました。2年目にはJリーグユース選手権で3位を確保するなど、いきなり成果を見せます。そして2017年からは、ガイナーレ鳥取監督に就任し、自身初となるJ3での戦いをスタートしています。


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