名前古木克明(フルキカツアキ)
生年月日1980年11月10日
日本
出身三重県松阪市
プロフィール小学3年の時、松阪ジュニアホークスで野球を始め、4年から松阪リトルへ。投手、一塁、三塁を経験。西日本大会準優勝。大江中時代、松阪シニアの4番打者で東海大会準優勝。

豊田大谷高(愛知)に進み、1年秋からレギュラー入り。1997年夏の甲子園に出場、初戦1試合2本塁打を放ち、脚光を浴びる。1998年同大会ではベスト4に進出。

1999年ドラフト1位で横浜に入団。守備が不安でファーム暮らしが続くも、2002年、終盤一軍に定着して9本塁打。同年オフのインターコンチネンタルカップでは本塁打王。2003年、初の開幕スタメンの座を勝ち取り、22本塁打と頭角を現す。しかし、三塁手として失策を繰り返し、安定感のない打撃でレギュラーを失う。

2007年オフ、オリックスへトレード移籍。2008年から2年間で0本塁打に終わり、2009年オフ戦力外通告。トライアウトを受験するも獲得球団はなく、現役引退。

引退後は一時格闘家へ転身(2戦1勝)。2011年、野球熱が再燃し、トライアウト再受験。以後、独立リーグパシフィック・アソシエーションのハワイ・スターズ入団。2013年現役引退。

通算成績は543試合、1,263打数312安打、60本塁打、152打点、12盗塁、打率.247。豊田大谷高卒、182センチ、85キロ、右投左打

甲子園3本を含む高校通算52本塁打で、一気に注目される

古木克明は、三重県松阪市に生まれ、小学3年生からボーイズリーグ「松阪ジュニアホークス」で野球を始めます。
4年からはリトルリーグへ転向し、ずば抜けたパワーを武器に上級生に混じって試合で本塁打を連発しました。
松阪シニアでも4番打者として東海大会準優勝を飾り、甲子園出場経験のなかった愛知県の豊田大谷高校へ進学します。1年秋からレギュラーを掴むと、2年夏に初の甲子園出場へ導きました。そして初戦の長崎南山高戦では、敗戦濃厚の9回に同点2ランを放ちます。さらに延長でも勝ち越し2ランを放つなど、一瞬にしてスターとなりました。

3年夏も、甲子園へ帰還するとチームは快進撃を起こします。初戦では後のチームメイト村田修一から先制タイムリーを放ち東福岡に快勝しました。すると2回戦から準々決勝まで、自身も甲子園第3号本塁打を放つなど活躍し、3試合をオール1点差で勝利します。準決勝の京都成章戦では、4三振に抑えられて1-6と敗戦しましたが、堂々のベスト4でした。決勝戦は、松阪大輔がその京都成章相手にノーヒットノーランし、横浜高校が春夏連覇を達成して大きな注目を浴びます。しかし、高校通算52本塁打の古木も、ドラフトの目玉の一人となりました。

ドラフト1位で入団し、二軍で頭角を現すも守備に不安を抱える

1998年のドラフト会議では、平成の怪物・松阪大輔に3球団の1位指名が競合し、西武ライオンズが交渉権を獲得します。

松阪の地元である横浜ベイスターズは、松阪の当たりくじを外し、外れ1位で古木克明を指名しました。高卒ルーキーのため、ファームスタートとなりましたが、早くも打撃で頭角を現します。フレッシュオールスターゲームに出場するとMVPを獲得し、2年目にはファームながら二桁本塁打と魅力の長打力を披露しました。

しかし、一軍出場機会は2年間でわずか7試合の8打席に留まります。その大きな理由としては、古木の三塁手としての守備に大きな不安があったからでした。

プロ3年目の2002年、4番を務めるなど大気の片鱗を見せる

2002年、横浜は開幕から絶不調で最下位をひた走ります。シーズン終盤には、育成もかねて古木克明には多くの先発出場機会が訪れました。
9月初頭にプロ初安打を記録すると、その3日後に初本塁打を放ちます。そして、そこからは突如本塁打を量産し始めました。それも各チームのエース格から放ったことで、9月下旬からはペナントレース終了までチームの4番として抜擢されます。
結局、34試合の出場ながら、9本塁打22打点と低迷するチームの中で、将来の4番としての期待を抱かせました。
同年オフには、第15回IBAFインターコンチネンタルカップ日本代表に選出されます。
日本は準々決勝で敗退し5位となりましたが、古木は主砲として4本塁打を放ち、本塁打王を奪い、さらに自信をつけました。

長距離打者として覚醒も、不安定な打撃と低い守備力に苦しむ

進化が問われる2003年、古木克明は初の開幕スタメンを勝ち取り、6番三塁手として出場します。そして長打力を披露して、ウッズ、村田修一に続くチーム3位の22本塁打と一気にホームランバッターとして覚醒しました。しかし、得点圏打率は1割台とチャンスに弱く、さらにリーグワーストに1個差の131三振と脆さが目立ちます。さらに、三塁手の守備でもリーグワーストの18失策を犯し、途中からは外野手としての出場となっていました。

2004年からは正式に外野手としてスタートします。しかし、同年は佐伯貴弘、多村仁志、金城龍彦の正外野手3名が揃って打率3割をマークししたため、代打での出場が多くなりました。それでも少ない打席ながら、打率.290、11本塁打とらしさをみせます。その後も、非凡な打撃力を持ち合わせながら、外野手でも失策を繰り返したため、レギュラーがさらに遠のきました。

横浜でレギュラーを奪えずオリックスへ移籍するも2年で解雇

横浜でレギュラーどころか、一軍定着もできなくなると、2007年オフ、オリックス・バファローズへのトレード移籍が決まります。2008年のオリックスは、ローズ、カブレラ、ラロッカを中心に超強力打線を形成しました。割って入りたい古木克明でしたが、一軍、二軍の行き来を繰り返し、わずか21試合出場に終わりました。翌年はさらに減って9試合に留まり、2年連続で本塁打なしとなります。全くチームの戦力になれず、同年オフに戦力外通告を受けました。現役続行にこだわる古木は、12球団トライアウトに2度とも参加します。しかし、手を挙げる球団は現れず、やむなく演繹引退となりました。

一時、格闘家へ転身するも、野球熱が再燃しトライアウト再受験

引退後まもなく、格闘家への転身が発表されます。
約1年後の2010年12月31日、格闘一大イベントのDynamiteでデビューし、初戦は判定負けを喫しました。
4ヵ月後の第2戦では判定で見事勝利を収めますが、その後野球熱が再燃し、再挑戦を表明。12球団トライアウトに再挑戦しましたが、またしても獲得球団は現れませんでした。

2013年には、独立リーグパシフィック・アソシエーションのハワイ・スターズに挑戦して入団します。
実に久しぶりの本塁打も放つなど54試合に出場しました。日本プロ野球界への復帰を目指していましたが、ここで野球復帰への区切りをつけて、復興支援活動を伴う一般社団法人スポーツFプロジェクト(SFP)を設立します。また、事業構想大学院大学でアスリートのセカンドキャリアも研究しました。


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