名前波留敏夫(ハルトシオ)
生年月日1970年5月25日
日本
出身京都府京都市東山区
プロフィール小学2年で野球を始める。大谷高から熊谷組に入り、1993年夏の都市対抗で優秀選手、同年の社会人ベストナインに選ばれる。同社野球部休部により、同年ドラフト2位で横浜に入団。

1995年3割をマーク。俊足巧打の外野手として1998年には7月に月間MVPを奪う活躍で、日本一にも貢献する。2001年シーズン開幕後、電撃トレードで中日へ移籍。

2002年オフ、ロッテにトレード移籍。2004年オフ戦力外通告を受け引退。2006年から横浜のコーチに就任。2014年からは中日コーチに就任し、2017年現在も一軍打撃コーチを担当。

通算成績は913試合、3,138打数872安打、44本塁打、266打点、76盗塁、打率.278。大谷高卒、173センチ、76キロ。右投右打

熊谷組野球部の休部と同時に、横浜ベイスターズを逆指名して入団

波留敏夫は、京都府で生まれ、兄二人とともに小学2年生の頃から「山科ユーロー」で野球を始めました。

中学生時代は完全試合を達成するほどの投手でしたが、肩を壊して野手へ転向します。その後、大谷高校へ進学しましたが、甲子園出場はできませんでした。

卒業後は、社会人熊谷組へ進みます。1992年、都市対抗で準優勝を経験し、翌年は準々決勝で敗退となりましたが、見事大会優秀選手に選ばれました。
しかし、当時長期不況が親会社を圧迫し、1993年野球部の休部が決まります。遊撃手として社会人ベストナインに選出されていた波留は、同年のドラフト会議で横浜ベイスターズを逆指名し、ドラフト2位での入団が決まりました。

外野手へ転向して2番に定着すると、チームは久々の優勝争い

即戦力として入団した波留敏夫でしたが、オープン戦初戦でフェンスに激突して怪我を負い、怪我が癒えた4月には練習試合で左膝靭帯損傷するという最悪のプロスタートとなります。
復帰には3ヶ月を要し、初出場は1994年7月になりました。しかし、怪我で離脱した進藤達哉に代わって1番遊撃手を務めるなど、53試合に出場し、打率.298と好成績を残します。

翌年、進藤が復帰すると外野手に転向し、畠山準からレギュラーを奪いました。打撃成績も安定し、初めて規定打席に到達すると、リーグ5位の打率.310と高打率を残します。
3年目に打撃改造して臨みましたが、不調に終わりました。1997年は元の打撃に戻すと、打率.295と調子が戻り、1番石井琢朗との1・2番コンビは他チームの脅威となります。
さらに同年は、中盤から投打がかみ合い、終盤までヤクルトと優勝争いを展開しました。二桁勝利達成投手が4人誕生し、クローザー佐々木主浩につなぐ勝ちパターンが確立します。終盤後一歩及びませんでしたが、翌年に大きな期待を抱かせる2位でシーズンを終えました。

プロ野球脱税事件への関与が発覚し、6週間の出場停止処分

1997年オフ、波留敏夫自身も関係するプロ野球選手20名程度にも及ぶ脱税事件が発覚します。

税関連に疎い新人のプロ野球を狙った経営コンサルタントによるものでしたが、プロ野球界の悪しき慣習の存在が明らかとなり、世間を騒然とさせました。
起訴された全選手にそれぞれ処分が下され、波留も比較的重い、翌年の開幕から6週間の出場停止となりました。

しかも横浜は、二軍試合も出場停止を課したため、1998年はまったく実戦練習することなく復帰せざるを得なくなりました。

ハマの核弾頭として横浜ベイスターズ38年ぶりの日本一に貢献

1998年、優勝を目指す横浜ベイスターズは、まずまずのスタートを切りました。そして当時の権藤博監督は、波留敏夫が出場可能となった日から即先発で起用します。しかし、想像通り野球勘がなかなか戻らず、打率も2割台を前後しましたが、逆にチーム状況はあがり6月に首位に躍り出ました。

2番打者に固定されていた波留は、7月になると一気に復調します。優勝を争う巨人戦でサヨナラタイムリーを放つなど、月間打率.412で自身初の月間MVPを獲得しました。チームはオールスターを挟んで10連勝するなど、着々と首位固めをします。波留は闘志むき出しのプレーを何度も見せたことから、「ハマの核弾頭」と呼ばれていました。

1・2番は石井琢朗と波留、クリーンナップに鈴木尚典、ロバート・ローズ、駒田徳広、さらに下位打線には佐伯貴弘、谷繁元信、進藤達哉の50打点トリオが揃った強力打線は、マシンガン打線と恐れられ、クローザーの佐々木主浩が連夜セーブを積み上げていきます。
まさに怒涛の勢いで、中日、巨人を振り切り38年ぶりのリーグ優勝を実現し、さらに日本シリーズでも西武を破って日本一を実現しました。

電撃トレードでチームが変わると、低迷が止まらずロッテで現役引退

1999年もマシンガン打線は好調でしたが、佐々木主浩の故障が響き、チームは3位に終わります。
それでも波留敏夫は130試合に出場してリーグ14位の打率.298、さらにはキャリアハイの15本塁打、70打点、21盗塁と好成績を残しました。
2000年も開幕から好調でしたが、足の怪我で戦線離脱し60試合出場に留まります。規定打席には到達しませんでしたが、打率.301と高打率をキープしていました。

2001年からは背番号1が与えられ、再び内野手へのチャレンジを開始しましたが、シーズン早々に同一リーグによる電撃トレードで、中日ドラゴンズへの移籍が決まります。あまりに突然のトレードだったため、ヘルメットは川上憲伸から借り、スパイクをドラゴンズブルーのスプレーで塗り替えるという突貫作業を強いられました。中日では主に中堅手を務めましたが、故障の影響が響き成績は低迷します。
翌2002年はレギュラーを奪えず39試合出場に留まると、オフに今度は千葉ロッテマリーンズへトレードされました。
新天地で復活にかけましたがかつての輝きを放つことはできませんでした。ロッテで過ごした2年はともに打率1割台に終わり、2004年オフには戦力外通告を受けました。

現役引退後は、横浜、中日とかつて戦ったチームでコーチに就任

引退後は、かつての所属先だった熊谷組がOBたちで設立したチーム「熊球クラブ」に入団します。

しかし2006年からは指導者として、再びプロ野球のユニフォームを着ました。打撃コーチ、外野守備コーチなどを転々としながら8年間、古巣ベイスターズに所属し、2014年からは、同じく古巣の中日ドラゴンズのコーチに就いています。

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