木田優夫について
名前 | 木田優夫 |
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生年月日 | 1968年9月12日 |
国 | 日本 |
出身 | 東京都国分寺市 |
プロフィール | 昭和61年夏の甲子園県予戦で決勝に進出。高校通算56勝15敗、長身から投げおろす速球を見込まれて、62年ドラフト1位で巨人に入団。平成元年4月初勝利、2年2ケタ勝利。10年オリックスに移籍。同年FA宣言、12月大リーグのデトロイト・タイガースに入団。11年3月オープン戦の対インディアンス戦で初登板。5月対インディアンス戦で初セーブ、6月対マリナーズ戦で初勝利を挙げる。12年6月オリックスに復帰。応援歌「野球星」がある。188センチ、95キロ。右投右打 |
無名の投手を指名した球団とは?
木田優夫が野球を始めたキッカケは父の影響でした。木田の父は高校球児で活躍しただけに息子にも同じ道を歩ませたくなり、熱心に野球を指導しました。その甲斐あって木田はメキメキと伸びる身長のごとく、野球の成績も急成長。高校も山梨県の日本大学明誠高校に進学し、そこでもエース投手として活躍します。
投手としての木田は150キロのストレートを武器にする本格派のピッチングで、堂々たる体躯とともに話題になりましたが、いかんせん進学した高校は決して強豪校とは言い難く、木田を擁しても県大会の予選も勝ち進めない年が続きました。木田が高校時代の最高成績となったのは3年時の夏の大会での準優勝まで。高校通算で56勝15敗という記録を残しましたが、全国レベルで木田の名は全く知られていませんでした。
そのため、ドラフト会議でも全くのノーマーク。86年のドラフト候補生になったとはいえ、無名中の無名だけにどのチームが指名するかもわからない状況でした。しかし、この年のドラフト指名選手は例年にない不作の年。そのため、誰が指名されてもおかしくないという状況でもありました。
その中で木田を指名したのはなんと読売ジャイアンツ。もともとは即戦力候補の阿波野秀幸を指名しましたが、抽選で外れたことで、素材型の木田にシフト。前年に桑田真澄を指名し、2年連続の高校卒の投手を指名するという完全に育成を目指した指名を展開していたことがわかります。
先発中継ぎリリーフ…便利屋になった巨人時代
まさかのドラフト1位指名を受けた木田優夫。しかし、前年のドラフト1位の桑田真澄と比べると素材型の投手という評価でした。そのため、1年目から木田は二軍にとどまり、変化球の習得、そして体力づくりに当てられます。
その中で木田はカーブの習得に時間がかかったためになかなか一軍に上がることができませんでしたが、2年目にはアメリカ留学のメンバーに選ばれるなど、球団の期待はピカイチ。木田もその期待に応えるかのように、3年目の89年にプロ入り初の一軍昇格を果たし、初先発時には勝利を挙げるという活躍を収めます。
木田がキャリアハイとも言える活躍を残したのがプロ入り4年目の90年。この年の木田は藤田元司監督の期待に応えるかのように先発ローテーション入りを果たし、12勝8敗、防御率2.71という素晴らしい成績を残します。さらに当時はタイトルではなかったのですが、奪三振もリーグ1位の182をマークし、この年の巨人の優勝に大きく貢献します。
その後も活躍が期待された木田ですが、先発、リリーフ何でもこなせる便利さが仇となり、木田の大成を阻みました。なかでも木田を最もうまく使っていたのが長嶋茂雄監督。チーム事情に合わせて谷間の先発、ブルペンにと木田をフル回転。この頃の木田は永島監督からも「便利屋」として称されるほど、投手のユーティリティープレーヤーともいうべき活躍を見せます。
オリックス、メジャーと活躍の場を日米に広げる
98年、木田優夫は野村貴仁とのトレードでオリックスブルーウェーブへ移籍。オリックスではクローザーとして定着しますが、わずか1年で木田はFA宣言。メジャーリーグへの移籍を目指します。
木田を必要としたのはデトロイト・タイガース。日本人として史上8人目のメジャーリーガーとなりました。開幕こそAAAで迎えましたが、間もなくメジャーに上がり、主に中継ぎ投手として49試合に登板。そのタフネスぶりはチームにとってもプラスでしたが、防御率が6.46と決して通用したとは言えない成績。そのため、メジャー2年目の2000年のシーズン途中に契約を解除されてしまいました。メジャーの夢が立たれた木田は間もなく、古巣であるオリックスへと復帰します。
オリックスに復帰した木田ですが、1年半の在籍で39試合に登板しますが、通算成績としては5勝4敗4セーブと今一つ。2年とも防御率は3.50を上回るなど、決して優れていたわけではありませんでした。そのためオリックスも01年オフに木田を自由契約に。また、木田も右肩の負傷もあったため、02年は休養に充てるために無所属に。03年の奮起を期待しました。
その03年、木田はまたも海を渡り、ロサンゼルス・ドジャースと契約。デトロイト時代に苦労したと語っていた木田ですが、ここでも故障に見舞われます。8月にメジャーへ昇格しますが、04年途中にシアトル・マリナーズへ移籍。ここで木田はサイドスローへとフォームを変えて生き残りをかけましたが、メジャーでは通用せずにこの年限りで自由契約になります。
ヤクルトで活躍し、石川で有終の美を飾る
05年オフ、ふたたび行き場のなくなった木田優夫。これで引退かとも思われましたが、そんな木田に声をかけたのが、翌06年からヤクルトスワローズの監督に就任する古田敦也。行き場のなくなった木田はこの誘いを意気に感じたか、翌06年、木田は中継ぎで56試合に登板し、リーグ4位となる23ホールドを記録するなど大活躍。監督推薦という形ではありますが、自身2回目となるオールスターゲーム出場。初出場が16年前の90年だったため、15年間のブランクは歴代最長記録となりました。
古田政権では活躍した木田ですが、監督が変わった08年からはまたもスランプに。とうとう09年にヤクルトも自由契約になり、10年には北海道日本ハムファイターズへ移籍。初年度こそ21試合に登板しましたが、その後は1桁登板にとどまり、12年オフに退団することになりました。
流転していく木田が最後に選んだ地はBCリーグの石川ミリオンスターズ。主にクローザーとして活躍した木田は13年に52試合に登板して3勝1敗15セーブという大活躍で、チームの前期優勝に大きく貢献します。これを最後の花道とした木田は翌14年のシーズン終わりに現役を引退。長きにわたるプロ野球生活にピリオドを打ちました。