後藤武敏について
名前 | 後藤武敏 |
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生年月日 | 1980年6月5日 |
国 | 日本 |
出身 | 静岡県浜松市 |
プロフィール | 小学3年から野球を始め、浜松シニアでは4番打者として全国大会準優勝に貢献。横浜高を経て、法政大学に進学。2000年春、2年生で東京六大学野球リーグに初出場し、打率.455、2本塁打、14打点で三冠王を獲得、ベストナインにも選ばれる。2年春での三冠王獲得は、小早川毅彦(法大)を抜いて史上最速。2001年5月チームのリーグ優勝に貢献。176センチ、88キロ。右投右打
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甲子園優勝、大学三冠達成と華々しいアマ時代
後藤武敏が野球を始めたのは小学3年生のころからでした。当時から後藤の野球センスは評判ですぐにレギュラーどころか主力打者に成長。中学時代には浜松シニアで4番打者を務めるようになります。
浜松シニアは全国的にも強豪チームとして知られており、後藤の在籍時に全国大会準優勝に輝きました。もちろん、この大会を勝ち進んだ理由に後藤が貢献したのは言うまでもありません。
中学時代から圧倒的な打棒で知られていた後藤は、進学するにあたりスカウトが殺到しますが、後藤が選んだのは神奈川県の名門高校である横浜高校でした。後藤の同級生の選手たちには松坂大輔、小山良男、さらに小池正晃と後にプロ入りする選手が多数いる黄金世代。ちなみに1年上にはタレントの上地雄輔がいました。
これだけの豪華メンバーの中でも後藤のスラッガーっぷりはずば抜けていて、3年生になるころにはクリーンナップを任されるように。この頃の横浜高校は松坂一人がもてはやされていた感がありますが、後藤らの強力打線があってこそ勝っていけるチームでもありました。
豪華なメンバーを擁した横浜高校が史上最強チームと称されるようになったのは98年のこと。後藤はこの横浜高校で3番打者としてプレーして、甲子園大会の春夏制覇に大きく貢献します。さらに国体でも優勝し、横浜高校は高校野球三冠を達成。まさに史上最強の高校野球チームの名をほしいままにしました。
その後、エース松坂と小池はプロ入りしますが、後藤は法政大学へ進学。大学でも後藤の打棒は変わることがなく、2年生の春に行われた春季リーグで後藤は打率4割4分5厘、2本塁打、14打点の活躍で見事に三冠王に輝きました。ちなみに2年生春の時点での三冠達成は法政大学の先輩にあたる小早川毅彦の記録を塗り替える史上最速の記録。その後も後藤はタイトルを複数回獲得しました。
プロ注目のスラッガーとして02年のドラフト会議で西武ライオンズの自由枠指名で入団。松坂世代注目の打者がプロの世界にやってきました。
ルーキーながら開幕4番の大抜擢
後藤武敏の所属した西武ライオンズには、横浜高校時代のチームメイトの松坂大輔が在籍。4年の時を経て再びチームメイトとなった二人ですが、球界のエースとなっていた松坂とルーキーの後藤とでは立場が大きく異なりました。
しかし、二人はそんなことは全く気にせず、キャンプから旧交を温めていました。松坂にとっても前年故障で思うような投球ができなかっただけに復活の年として03年は大切な年となり、後藤もルーキーイヤーとして奮起するようになります。
そうして迎えた03年の開幕戦。後藤はオープン戦から高打率をキープして開幕一軍の切符をつかんでいましたが、開幕スタメン、それも4番打者として抜擢されます。というのも前年に55本塁打を放ったアレックス・カブレラが故障したため開幕戦に間に合わず、4番の席が空席になったことで後藤にお鉢が回ってきたのでした。
そのチャンスを後藤は逃すことなく活躍します。最大の特徴である柔らかいリストを生かした打撃で3割をキープ。さらに横浜と法大で磨いた勝負強い打撃は打点を量産し、クリーンナップにふさわしい活躍を見せました。
後半戦こそ研究されたせいか、後藤のバットは湿りましたが、それでも101試合に出場し、11本塁打44打点という活躍を見せ、チームに大きく貢献します。翌年以降も後藤の活躍は期待され、伊東勤新監督もまた後藤に期待し、04年の開幕戦でも後藤は5番ファーストで開幕メンバー入り。しかし、この年は故障に見舞われたことで打撃成績を落とし、さらに休養中に貝塚政秀が台頭。前年の約4分の1となる24試合出場にとどまり、打率も1割台に低迷します。
これを機に後藤はレギュラーはおろか、一軍の枠にも入れない二軍暮らしが続きます。この頃の西武には中村剛也が台頭し始めたのをはじめ、若いスラッガーたちが続々と現れた時期でした。そのため後藤の存在感が薄くなってきた時期でもあり、06年になるとなんと一軍出場すらゼロ。2年目の04年から07年までの通算出場数を足してもルーキーイヤーの101試合に届かないという不遇の時代を迎えてしまいます。
故障と若手の台頭で、出場機会を失う
若手選手の台頭で後がなくなってきた後藤武敏。渡辺久信監督に替わった08年も開幕を二軍で過ごし、しばらく二軍の帝王としてくすぶっていましたが、6月にチャンスをつかむとなんとルーキーイヤー以来となる本塁打を放つなど大爆発。
以降も打棒は好調で、北京オリンピックで主力選手が抜けた時期には4番打者として定着。その後も勝負強い打撃を見せて49試合の出場ながら打率は3割1厘、本塁打は自己最高となる12本塁打をマーク。日本シリーズでも巨人のエース、上原浩治から本塁打を放つなどの活躍を見せました。
更なる飛躍が期待された09年、出場機会を増やすために後藤はこの年から外野へコンバートします。
故障がちではありましたが、54試合に出場して2割9分1厘と好成績を残しましたが、これが西武時代の後藤の最後の輝きに。
翌年以降の後藤は左投手から全く打てなくなり打撃不振に陥ります。
そして、11年のシーズンオフに後藤はトレードによって横浜DeNAベイスターズへと移籍することになりました。若手選手の台頭で後がなくなってきた後藤武敏。渡辺久信監督に替わった08年も開幕を二軍で過ごし、しばらく二軍の帝王としてくすぶっていましたが、6月にチャンスをつかむとなんとルーキーイヤー以来となる本塁打を放つなど大爆発。
以降も打棒は好調で、北京オリンピックで主力選手が抜けた時期には4番打者として定着。その後も勝負強い打撃を見せて49試合の出場ながら打率は3割1厘、本塁打は自己最高となる12本塁打をマーク。日本シリーズでも巨人のエース、上原浩治から本塁打を放つなどの活躍を見せました。
更なる飛躍が期待された09年、出場機会を増やすために後藤はこの年から外野へコンバートします。
故障がちではありましたが、54試合に出場して2割9分1厘と好成績を残しましたが、これが西武時代の後藤の最後の輝きに。
翌年以降の後藤は左投手から全く打てなくなり打撃不振に陥ります。
そして、11年のシーズンオフに後藤はトレードによって横浜DeNAベイスターズへと移籍することになりました。
ゴメスの愛称で横浜のファンに親しまれる
埼玉西武ライオンズからトレードされ、高校時代以来となる横浜を本拠地とすることになった後藤武敏。
初心に帰ろうという意味もあったと推察されるトレードですが、初年度の12年、後藤は右の代打として一軍に定着すると、勝負強い打撃でチームに貢献します。毎年のように最下位を争っているチームだけにペナントの順位は散々なものでしたが、後藤としても復活ののろしを上げました。
また、この頃から後藤はチームメイトから「ゴメス」と呼ばれるように。横浜高校の後輩である石川雄洋とのやりとりで生まれた愛称ですが、これがファンに浸透。いつしか後藤は「ゴメス」の愛称でファンからも親しまれ、愛されキャラとしてチームの顔に。この愛称は後藤にとってもお気に入りだったのか、15年から「後藤武敏G.」という登録名でプレーしたり、毎年のようにゴメスの頭文字「G」を登録名のどこかに入れるという遊び心を見せます。
そうして2017年現在、後藤は「G.後藤武敏」という登録名でプレー。その勝負強い打撃で横浜の代打の切り札として活躍中です。