名前 | 井上純(イノウエジュン) |
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生年月日 | 1970年6月8日 |
国 | 日本 |
出身 | 宮城県仙台市 |
プロフィール | 仙台西リトルリーグに所属し、東陵高校に進学。1988年、3年夏に母校を初の甲子園出場に導く。甲子園では初戦敗退するも、高校通算38本塁打、俊足巧打の打者として評価されて同年ドラフト3位で横浜大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)に入団。
当初は、一軍定着できずに終わるも、1995年打撃フォーム改造が功を奏し、チャンスが増える。1996年からは代打の切り札的な存在となる。1998年、初の開幕スタメン。同年は規定打席未到達ながら打率.330を残し、チームの38年ぶりの日本一に貢献。 2002年オフ、一軍出場12試合に終わり、戦力外通告。2003年、入団テストに合格して千葉ロッテに入団。同年、中盤から一軍に定着し終盤からは3番打者として活躍。2005年、わずか28試合出場も、チームの31年ぶり日本一に貢献。 2006年オフ戦力外通告を受けて現役引退。同年から、古巣横浜の二軍・湘南シーレックスのコーチに就任。2013年からは地元宮城に戻り楽天のジュニアコーチに就任。 通算成績は686試合、1,124打数302安打、18本塁打、105打点、28盗塁、打率.269。東陵高卒、182センチ、76キロ、左投左打 |
宮城県屈指のスラッガーとして、東陵高校を初の甲子園に導く
井上純は、宮城県仙台市に生まれ、仙台西リトルリーグで野球の腕を磨きます。高校進学には、20年近く甲子園出場を分け合っていた東北、仙台育英ではなく、気仙沼の東陵高校を選択しました。東陵には井上含めて好打者が揃い、どこからでもホームランが打てる強打のチームが完成します。そして1988年、3年最後の夏、走攻守三拍子揃った大会屈指の打者として注目されました。
初戦の打撃戦を制した東陵は順調に勝ち上がり、準決勝で第1シードの仙台育英と対戦します。同年春季大会も制していた仙台育英は、9回までリードしていましたが、東陵が逆転で4-3と勝利しました。そして東北高校との決勝戦では、井上が初回に先制3ランを放って優位に試合を進め4-0と勝利します。東陵高校にとって初の甲子園出場を見事に引き寄せました。甲子園での福井商業との初戦、自ら3ベースを含む2安打を放ち、2-0とリードします。しかし、終盤立て続けに失点し2-3と悔しい敗退となってしまいました。
俊足巧打の打者として期待されるも、一軍レギュラーの座を掴めず
高校通算38本塁打、さらには俊足と三拍子揃った井上純は、1988年ドラフト会議で横浜大洋ホエールズ(現在の横浜DeNAベイスターズ)から3位指名を受けて入団します。同年の1位指名は、正捕手候補の谷繁元信でしたが、井上もOBの屋鋪要よりも俊足として大いに期待されました。高卒ルーキーだけに、1年目は育成重視となり、ファームのみの出場となります。2年目には、イースタンリーグで打率.269、9本塁打、31盗塁と噂どおりの成績を残し、一軍初出場にプロ初安打を記録しました。
しかし、その後二軍で足では突出した活躍を見せるものの、打撃不振に陥り一軍定着できない日々が続きます。プロ入団6年間でわずか6安打と完全にプロの厚い壁に遮られていました。そこで1995年、井上はフォーム改造を決意し、ファームながら初の打率3割をマークします。同年は、一軍でも41試合に出場し、プロ初本塁打も記録しました。1996年からは、代打として一軍に定着できるようになります。同年は少ない打席ながら打率.290と高い数字を残しました。
代打の切り札として活躍し、横浜の38年ぶり日本一に貢献
前年、横浜ベイスターズは久しぶりに終盤まで優勝争いを展開しましたが、ヤクルトに逃げ切られて2位で終わっていました。1998年は久しぶりの優勝を目指すシーズンを迎えます。打ち出したら止まらないマシンガン打線はほぼ固定されていましたが、2番の波留敏夫が、前年オフの脱税事件のため6週間の出場停止処分を受けており、その代役が必要な状況でした。するとプロ10年目の井上純が、千載一遇のチャンスを生かします。オープン戦で打率.357と結果を残し、自身初の開幕スタメンの座を掴みました。
波留が復帰後は、再び代打の切り札に戻りましたが、リーグトップの代打打率.415を残して存在感を示します。結局、同年は打率.330を残し、チームの38年ぶりのリーグ優勝に貢献しました。日本シリーズでも第5戦にスタメンに抜擢されると、2本の2ベースを放ち、チームの大勝(17-5)を引き寄せ、見事な日本一を達成します。翌1999年も代打で6打席連続安打を記録するなど2年連続で活躍を見せました。
テスト入団したロッテでは、下克上で31年ぶりの日本一を経験
その後も横浜で貴重な代打として活躍しましたが、2002年に12試合出場と一気に出場機会が少なくなり、同年オフに戦力外通告を受けます。まだ現役続行にこだわる井上純は、千葉ロッテマリーンズのテストを受けて入団しました。当初はスタメンに名を連ねるも結果を残せず、出場機会を失います。しかし、夏場に復帰すると終盤には福浦和也に代わって3番打者に抜擢されるなど、中軸として試合に出場し続けました。同年はキャリアハイとなる打席数で、6本塁打と長打力も見せます。さらに2004年も準レギュラーとして、80試合に出場し打率.289と高打率を残しました。
2005年、自身2度目の開幕スタメンの座を勝ち取ります。安打も放ちましたが、貴重な得点機に2度も走塁ミスを犯し、レギュラーへの階段を登れなくなりました。その後、ファーム生活が長くなりましたが、大事なシーズン終盤に一軍に復帰します。同年のロッテは、10年ぶりにAクラスを確保すると、クライマックスシリーズ出場を決めました。1995年以来の下克上日本一を目指すチームは、一丸となり西武、ソフトバンクを破って日本シリーズ出場も決めます。この時、ウイニングボールを掴んだのが途中守備から出場していた井上でした。そして、日本シリーズでは阪神タイガース相手に、4連勝を飾り史上最大の下克上を実現します。井上は、横浜で38年ぶり、ロッテで31年ぶりとセ・パ両リーグで、ともに30年以上ぶりの日本一を両方経験した稀有な選手となりました。
現役引退後は指導者に転身し、2013年からは地元楽天コーチに就任
2006年、開幕時5番打者を務めるなど期待されていましたが、徐々に不振に陥ります。結局同年は30試合の出場で打率.218と低迷し、戦力外通告を受けました。2度目の宣告に現役引退を決意し、指導者の道を歩みます。同年10月から、古巣横浜の二軍・湘南シーレックスのコーチに就任しました。6年間、湘南で過ごした後は、地元宮城に戻り東北楽天ゴールデンイーグルスのベースボールスクールジュニアコーチに就任します。時に楽天の試合の解説者としても顔を出すようになっています。