小沢幸について
名前 | 小沢幸 |
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生年月日 | 1976年12月23日 |
国 | 日本 |
出身 | 東京都北区 |
プロフィール | 1995年より世界選手権代表。1996年世界選手権総合17位、1997年同リレー3位。1998年長野五輪3000メートルリレーで4位。同年11月全日本選抜1500メートル優勝。山梨学院大学在学。154センチ、50キロ
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スピードスケートのために越境進学へ
小沢幸が生まれたのは東京都北区。夏季オリンピック選手ならまだしも、後に冬季オリンピックへ出場する選手としては珍しい北国以外での出身者でした。
そもそも北国出身者に冬季オリンピック選手が多い理由はというとその練習環境。雪が大量に降る街だからこそ、ウインタースポーツが盛んで練習環境に恵まれているというメリットがあります。しかし、小沢が育った街にはそうした設備はほとんどありませんでした。
しかし、その頃から小沢のスケート技術は群を抜いていました。大人でもスイスイと交わしてすべる様子に彼女自身もどこか「楽しいかも」という気持ちが芽生えてきて、やがて中学→高校、果ては大学生になってもスケートを続けることになります。
東京都北区で育った彼女にとって、人生のターニングポイントになったと言えるのが高校進学時のこと。と言うのも彼女が打ち込んでいたスケートを高校でもやろうとすると、どうしても都内の高校では満足いく練習環境が整いませんでした。そのため、小沢が選んだのは越境進学。スケートをする環境として彼女が選んだのは長野県にある佐久長聖高校でした。
佐久長聖高校から山梨学院へ
小沢幸が進学した佐久長聖高校は長野県でも屈指のスポーツ校として知られる学校。小沢が在籍していた時期からは野球が強くなったことでも知られていますが、その他でも陸上競技でも名門校で高校駅伝には98年から毎年のように出場し、さらに女子バスケットボールでもインターハイの常連校になっているほどでした。
これだけ優れた運動部があるだけでなく、スケートをするにはぴったりの環境だったこともあり、小沢はここでスケートに打ち込みます。しかし、高校時代の小沢は目立った成績を残すことができず、インターハイ等のビッグタイトルとも無縁のままでした。
高校を卒業するにあたり、大学進学を決めた小沢ですが、ここでも練習環境を第一に考えました。北海道の選手の場合は実業団選手として競技を続けることができますが、それ以外の地域だと施設が充実している大学に進学して、練習を積むというのが一般的。そこで小沢が選んだのは山梨学院大学。今度は長野から山梨へと移ることになりました。
山梨学院大学進学で本格化
小沢幸が大学進学の際に選んだ山梨学院大学は佐久長聖高校と同様にスポーツで知られる大学でした。中でも有名なのが陸上部で、海外の留学選手を混ぜて毎年のように箱根駅伝で活躍することでも知られています。ちなみに小沢が進学した当時、陸上部にはステファン・マヤカが在籍するなど、優勝候補の一角としても知られていました。
そんな山梨学院大学はスケートも強化指定部活として選ばれているように活発な部活動として知られています。ここで小沢は今井英人に出会ったことで才能をさらに伸ばしていくようになります。
学生でありながら94年のリメハンメルオリンピックに出場するなど輝かしい実績を持つ今井に追いつけ追い越せの精神で奮闘した小沢は95年に世界選手権代表メンバー入りを果たし、世界で戦う用意ができました。そして96年には世界選手権に出場して総合17位。さらに97年委は世界選手権リレーに出場し、チームを3位に導く活躍を見せます。この活躍があって、小沢は翌年に開催される長野オリンピックの代表選手の切符を掴むことになりました。
ちなみに小沢にとって長野は高校時代の思い出の街。最高の舞台でのオリンピック出場となりました。
長野五輪で見せた、故郷に錦の滑り
大学3年生にしてオリンピック選手となった小沢幸。この大会で小沢が出場したのは女子1000mと女子リレーの3000m。個人競技と団体種目の両方で才能を発揮していた彼女の適性をフルに生かすものでした。
その1000m女子、小沢は勅使川原郁恵、田中千景らとともに予選を滑り、予選2組で2位通過。そして予選2回目の3組目で3位通過を果たした小沢は勅使河原とともに準決勝へ進出。ここで小沢は勅使河原の前に敗れ、準決勝で3位、そして決勝では大きく離れた5位に終わりました。
個人種目では今一つだった小沢ですが、3000mの女子リレーでは第三走者として頭角を現し、なんと準決勝1組目を2位で通過。一躍メダルの期待が高まりますが、まさかの4着に敗退してしまいました。
結局、小沢がメダルに最も近づいたはこのリレーの4位。オリンピックのメダルのはあと一歩届きませんでしたが、そのプレースタイルは今もなお語り継がれています。