タチアナ・タラソワについて

名前 タチアナ・タラソワ
生年月日 1947年2月13日
ソ連(現ロシア)
出身 ソ連
プロフィール 父はアイスホッケーの名監督。1966年フィギュアスケートのペア選手を引退後、コーチに。

2002年のソルトレークシティ五輪男子金メダリストのアレクセイ・ヤグディン(ロシア)をはじめ、ペアやアイスダンスでも五輪の金メダリストを育てた。2004年にはトリノ五輪金メダリストの荒川静香を指導した。

2008年から浅田真央のコーチに就任。浅田は2010年のバンクーバー五輪で銀メダルを獲得。2009年世界選手権男子金メダリストのエバン・ライサチェク(米国)のフリープログラムを振り付ける。ヤグディンを金メダルに導いた時の振付師はニコライ・モロゾフ。ロシアスケート連盟顧問も務める。

18歳にしてフィギュアスケートを引退

タチアナ・タラソワが生まれ育ったのはソ連。父もアイスホッケーの名選手であるアナトル・タラソワ。
生まれつきスポーツ一家だったタラソワの家では彼女もウインタースポーツをするのは当たり前のこと。女性だったためか、ハードなアイスホッケーをすることはありませんでしたが、タラソワは父由来のスケートの技術に加えて世界最高峰のバレエの国であるロシアらしいバレエの演技を生かしたフィギュアスケートの世界で活躍していきます。

選手時代のタラソワは、17歳で出場した冬季ユニバーシアードトリノ大会でペア種目に出場して優勝するという輝かしい実績を持っていました。この頃の彼女のライバルとして知られるのはアレクセイ・ミーシン。同じペアスケーターとして才能を認め合いながら、彼と優勝を争い続けました。

しかし、タラソワは65年世界選手権7位、66年の欧州選手権で4位に入るなどの実績を残しましたが間もなく現役を引退することに。スケートをする上では致命的な故障をしたことが最大の原因となりましたが、まだ18歳の少女が突如としてスケート界から姿を消すことになったのはソ連にとっても損失とも呼べる出来事でした。

クーリック、ヤグディンに金メダルを与える

わずか18歳にしてスケート選手としてのキャリアを終了したタチアナ・タラソワ。その無念は想像を絶するものですが、彼女はくじけずに翌年からコーチとして転身。自身の経験を後輩たちにつなげていくようにと考え直します。
しかし、19歳のコーチの言うことを同世代、果ては自身よりも年上の選手が素直に聞くわけがなく、最初のころのタラソワはコーチとして壁に当たるように。ようやく彼女のコーチとしての適性が評価されるようになったのは98年、長野オリンピックでのことでした。

この大会に出場したイリヤ・クーリックが前評判通りに男子フィギュアスケートで優勝。もともと93年の世界ジュニア選手権3位、95年世界ジュニア選手権優勝、98年はロシア国内チャンピオンに輝くなどの実績を持つ選手ではありましたが、長野オリンピックでの勝利は明らかにタラソワが指導した効果の賜物と言えました。
その理由はよく練られたプログラミングと高度なステップ技術。タラソワがコーチでなければ考え付かないだろうと言われるバレエを模した振り付けはフィギュアスケートの中でも見事にマッチし、クーリックの金メダルに繋がりました。

これでフィギュアスケート界のコーチとして存在を確立したタラソワのもとには、その後も好素質を持つ選手が続々と彼女の指導を希望するようになります。次にタラソワが脚光を浴びたのは02年時のソルトレイクシティオリンピックでのこと。この時タラソワが指導していたのは、アレクセイ・ヤグディン。かつてのライバルであるアレクセイ・ミーシンの元教え子で、ミーシンの指導が合わずにタラソワを頼ってきたという経緯を持つ選手だけにタラソワも指導に熱が入ります。

そのヤグディンはオリンピック目前、臀部の故障もあり満足にスケートができないという状況でタラソワとも口論になるなど最悪の状態でしたが、タラソワが考案したプログラムで完ぺきに滑り切ったことで関係も復活。そしてヤグディンも金メダリストに導いたことでタラソワの名声は不動のものになりました。

荒川静香に世界選手権金メダルをもたらす

男子スケーター2人を金メダリストに導いたタチアナ・タラソワ。いずれもロシア人の選手でしたが、世界各国の有力選手が集まるオリンピックであれだけの成績を残せば当然、外国人選手からもオファーがやってきます。

次に彼女の指導で開花した選手として名前が挙がるのは荒川静香。
それまでコーチを頻繁に変えた荒川でしたが、タラソワと組んだのはなんと世界選手権の3週間前と言う直前のこと。当時の荒川が現役ラストの舞台と考えていた世界選手権での金メダル獲得に向けて、「金メダルメーカー」と呼ばれたタラソワの存在は必要不可欠と考えてのことでした。

新コーチにタラソワを迎えた荒川はタラソワの指導の下で構成を変更、世界選手権のフリーではタラソワの指導の下で3回転ルッツ―3回転トゥループ―2回転ループ、3回転サルコウ―3回転トゥループという大技続きのコンビネーションジャンプを取り入れ、本番は見事にノーミスで成功させて芸術点では6.0満点を記録。

これが決め手となって荒川は日本人として10年ぶりに世界選手権の優勝を飾りました。長らくロシア人とのコンビでしか実績を残していなかったタラソワにとっても日本人選手とパートナーを組んで初めてのタイトル獲得となりました。

ただし、荒川がトリノオリンピックで金メダルを獲得した際はタラソワの姿はありませんでした。
というのもこの当時のタラソワは新たに変わった採点方式の対応に遅れたことが災いし、荒川とのパートナーシップを解消していました。しかし、タラソワは間もなく採点方式にも対応し、プログラムを組みなおすことで他のスケーターたちに効果的な指導を行えるようにもなっています。

浅田真央と挑んだバンクーバー五輪

あらゆるスケーターを金メダルに導くタチアナ・タラソワ。そんな彼女を頼ってきたのが08-09シーズンの浅田真央。
実は07年の夏にすでに振り付けの指導をした選手でしたが、浅田が苦手としていたルッツやサルコウといったプログラムを強化できる回転技の指導、そしてそれらを引き立たせるためのプログラム構築など、タラソワの実績が必要になったためと言えるでしょう。
バンクーバーオリンピックを前年に控え、悲願とも言える金メダル獲得に浅田は最強のパートナーを選びました。

この頃から浅田とタラソワのツーショットをよく見るようになり、あのゴージャスな毛皮のコートがタラソワのトレードマークに。そして二人で挑んだ2010年のバンクーバーオリンピック、浅田は自己ベストを更新する会心の演技を披露しましたが、それ以上にキム・ヨナが素晴らしく、結果的に銀メダルに終わりました。
これは同時にタラソワの金メダルメーカーとしての記録も途切れる結果になりましたが、続く世界選手権で浅田はキムにリベンジを果たし、タラソワの溜飲も下げる結果を収めました。

そして現在、タラソワはと言うとかつての拠点だったアメリカから地元ロシアへ戻り、ロシアスケート連盟の顧問に就任し、スケート全体の活動に努めています。

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