オラツィオ・ファゴーネについて
名前 | オラツィオ・ファゴーネ |
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生年月日 | 1968年11月13日 |
国 | イタリア |
出身 | イタリア・カターニア |
プロフィール | イタリア代表のショートトラック選手としてカルガリー五輪、アルベールビル五輪、リレハンメル五輪と3大会に連続出場し、リレハンメル五輪では5000メートルリレーで金メダルを獲得。1997年長野五輪に向けてのトレーニング中に交通事故に巻き込まれ、右足切断を余儀なくされる。その後、ショートトラックのイタリア代表チームのスタッフとして働くが、ソルトレークシティ五輪後はスケート界から離れた。車いすカーリングを経て、トリノパラリンピック組織委員会会長からアイススレッジホッケーを勧められ、2005年トリノ市内のチームに入団。2006年トリノパラリンピックにアイススレッジホッケーのイタリア代表として出場した。
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スケートに活路を見出し、五輪出場を果たす
オラツィオ・ファゴーネが生まれ育ったのはイタリアのカターニアでした。海に面している街で、サッカーや水球チームがあることで知られる街ですが、ファゴーネが熱中したのはウインタースポーツ。中でもスケートがファゴーネの心を掴みました。誰よりも速く滑れるファゴーネは同級生はもちろん、大人顔負けの実力者に。やがて成長してスタミナがついてきたファゴーネはスピードスケートの選手として本格的にスケートをはじめ、長距離戦線で活路を見出していきました。
ファゴーネが本格的にスピードスケートを始めた当時、スピードスケートはまだオリンピックの正式種目になっていませんでした。それでもファゴーネは20歳のころに開催されたカルガリーオリンピックに参加。公開競技だったショートトラックスピードスケートの1500m戦は3位でゴール。さらに5000mリレーではロベルト・ペレッティ、エンリコ・ペレッティ、ヒューゴ・ヘルノフらとともに参戦して2位に。イタリアのスピードスケート選手としてけん引する存在になりました。
イタリア本国に戻った後もファゴーネは懸命なトレーニングを積み重ねていきましたが、スピードスケートの盛り上がりを受けたオリンピック協会は続くアルベールヒルオリンピックからショートトラックスピードスケートをオリンピックの正式種目に取り入れることを決めます。これでますますファゴーネたちは練習に力が入るようになりました。
リメハンメル五輪で念願の金メダル
イタリアのスピードスケートのトップ選手となったオラツィオ・ファゴーネにとって、次なる目標はオリンピックのメダル。実際にオリンピックにショートトラックスピードスケートが正式種目として組まれるようになったことでより一層力を入れるようになりました。しかし、それは世界各国ともに同じことで正式種目になったということは、それだけレベルが上がったということを意味します。
迎えた92年のアルベールヒルオリンピック。ファゴーネは個人で1000m、団体で5000mリレーに出場しましたが、1000mでは24位と完敗。そして前回2位に入り、メダルも期待された5000mリレーは9チーム中8位と言う惨敗に終わりました。正式種目入りしたことでレベルが上がったことが仇となる形になりました。
奮起を期したファゴーネたちは次のリメハンメルオリンピックのリベンジを誓いました。もともとイタリアはさほどウインタースポーツが強い国と言うわけではありませんでしたが、ファゴーネたちは努力を惜しまずにトレーニングを積み重ねていきました。それが結実したのが2年後のリメハンメルオリンピックでした。
冬季と夏季の開催年度を分けるという理由で、オリンピックの周期をずらしたリメハンメルオリンピック。2年前のリベンジとばかりにファゴーネは本来の主戦距離である1000mだけでなく、500mにも参戦。それに加えて団体の5000mリレーにも出場しています。
500mは31位、1000mは15位と個人種目では今一つ振るわなかったファゴーネでしたが、団体の5000mリレーで奮闘。なんとイタリアチームは優勝。念願の金メダルを獲得しました。
交通事故で右足切断。スケート選手として無念のリタイア
リメハンメルオリンピックで金メダリストに輝いたオラツィオ・ファゴーネ。その後もトレーニングを順調に積み、4年後の長野オリンピックでは団体リレーの連覇、そして個人種目でのメダルを目指すことになりました。
しかし、そんなファゴーネに悲劇が襲いかかります。97年5月、トレーニングのためにオートバイで練習場に向かう際、対向車線をはみ出したトラックに轢かれたファゴーネは右足を負傷。生死の境をさまよいます。生き残るためには右足を切断する以外になく、ファゴーネはこの事故で右足を切断することになりました。それは同時にファゴーネのスケート人生の終わりを告げることにもなりました。
10ヵ月の療養を開けて、復帰したファゴーネに与えられたポジションはショートトラックの代表コーチでした。志半ばで去ることになったファゴーネを指導者として再起させるようにし、ファゴーネ自身もチームをソルトレイクオリンピックへ導きましたが、スケートができなくなったファゴーネにとってこれ以上辛いことはありませんでした。そのためか、ソルトレイクシティオリンピック終了後にコーチを辞任してしまいます。
アイススレッジホッケーに転向しトリノパラリンピックへ
コーチの座を辞任したオラツィオ・ファゴーネはその後、新たなスポーツで再起を誓います。選手としてまだ終わっていないということを証明したいファゴーネは車いすでできるスポーツとして車いすカーリングを始めます。そんなファゴーネの懸命な姿を見たトリノパラリンピック組織委員会会長のティツィアーナ・ナージの目に留まります。
ナージの目に留まったファゴーネはセカンドキャリアの一つとして、アイススレッジホッケーという競技を勧められます。下半身に障害のある選手ができるスポーツとして知られる競技だけにファゴーネでもできるもの。ここで再起したファゴーネはその後、懸命なトレーニングを積んで代表入り。06年のトリノパラリンピックの出場を果たし、すべてのイタリア人に希望を持たせました。