クラウディア・ペヒシュタインについて
名前 | クラウディア・ペヒシュタイン |
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生年月日 | 1972年2月22日 |
国 | ドイツ |
出身 | ドイツ・ベルリン |
プロフィール | 東ドイツで3歳からフィギュアスケートを始め、9歳の時にスピードスケートに転向。1992年アルベールビル五輪女子5000メートル銅メダル、世界選手権総合6位、’93年同9位。’94年リレハンメル五輪の5000メートルで金メダル、3000メートルで銅メダル獲得。’96年世界距離別選手権5000メートルで優勝、世界オールラウンド選手権総合2位。’97年世界オールラウンド選手権総合2位。’97〜98年シーズンのW杯第2戦(ハーマル大会)3000メートルでは4分7秒13の世界記録をマーク。’98年長野五輪5000メートルを世界記録で制し、2大会連続金メダル、3000メートルで銀メダルを獲得。世界オールラウンド選手権総合2位。’99年世界オールラウンド選手権総合2位。2000年世界距離別選手権1500メートル、3000メートルで2冠、世界オールラウンド選手権で初の総合優勝。2001年世界オールラウンド選手権総合2位。2002年ソルトレークシティ五輪3000メートルで3分57秒70、5000メートルで6分46秒91の世界記録をマークし金メダル。5000メートルの3連覇は、長距離では初の快挙となった。2003年、2004年世界オールラウンド選手権総合2位、2005年は総合3位。2006年トリノ五輪は団体パシュートで金メダル、5000メートルで銀メダルを獲得し、4大会連続で金メダリストに。同年の世界オールラウンド選手権は総合2位。2007年世界距離別選手権5000メートルで銀メダル、団体追い抜きで銅メダル。2008年世界距離別選手権は団体追い抜きで銅メダルを獲得。2009年7月国際スケート連盟(ISU)は、血液検査の数値が同年2月の世界選手権後に異常に変化したことを理由に血液ドーピングをしていたと判断し、2年間の出場停止処分を決定。その後、スポーツ仲裁裁判所(CAS)に異議申し立てをしたが、CASもISUの判断を支持。それでも諦めずスイス連邦裁判所に訴え、W杯出場に関して勝訴。同年12月にW杯ソルトレークシティ大会3000メートルに出場するが、13位。2010年バンクーバー五輪には出場できず、6大会連続出場は叶わなかった。2011年2月競技に復帰し、3月の世界距離別選手権は5000メートルと団体追い抜きで銅メダルを獲得した。2012年世界距離別選手権5000メートルで銅メダル、2013年は3000メートルと5000メートルで銅メダル。164センチ、58キロ。
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圧倒的な実力で20歳にして五輪出場
クラウディア・ペヒシュタインが生まれ育ったのはドイツの大都市、ベルリン。あらゆる環境が整った街でスケートリンクもある大きな街だったためかペヒシュタインもすぐにスケートを始められる環境がありました。そのため彼女が初めてスケート靴を履いたのは3歳のころ。早くからスケートが上達したペヒシュタインは9歳のころにそのスピードを生かすためにスピードスケートへ転向。本格的に競技を始めていきました。
ペヒシュタインの武器はなんといってもそのスタミナ。瞬発力と言うよりも持久力のあるスピードはスピードスケートではすぐにトップスピードに乗せなければならない短距離戦よりも長距離戦の方が有利。そのため、ペヒシュタインはすぐに長距離を専門にするようになります。そして20歳になったばかりの92年、ペヒシュタインはアルベールヒルオリンピックの代表選手に選出されます。
初の大舞台となったペヒシュタインでしたが、物おじすることなく、女子5000mに出場。初出場ながら持ち前のスタミナをフルに生かし切ったスケートを見せて3位に入賞。初出場ながら銅メダルを獲得しました。この後に行われた世界選手権でも活躍が期待されましたが、結果はまさかの6位。翌年も総合9位と振るわなかったように、このころのペヒシュタインはまだまだ戦績が安定しない状態が続きました。
リメハンメル五輪で金メダル。絶対女王へ
初のオリンピックで銅メダルを獲得したクラウディア・ペヒシュタイン。その後の成績が今一つ振るいませんでしたが、彼女の大舞台への強さをまざまざと見せつけたのが94年のリメハンメルオリンピックでした。
世界選手権の今一つな成績を見ると、期待薄とも思われましたが、ペヒシュタインはここで本領を発揮。前回銅メダルに終わった女子5000mで圧倒的なスピードで駆け抜けて見事に優勝。金メダリストに輝きました。さらにこの大会のペヒシュタインの活躍はこれだけにとどまらず、3000mでも銅メダルを獲得するなど、22歳になって完成度の高いスケート技術を見せつけました。
そして、それまで振るわないと言われ続けていた他の国際大会でも好成績を挙げるようになり、96年には世界距離別選手権の5000m戦で優勝、さらに世界オールラウンド選手権でも総合2位に食い込む実績を残し、そうした雑音を一気に封じます。
また世界オールラウンド選手権は翌97年も総合2位に入ったようにペヒシュタインこの頃からペヒシュタインは距離の幅も出てくるようになり、単にスタミナ一辺倒の選手と言うわけではなくなりました。スピードが増したことでペヒシュタインにはますます隙がなくなり、翌年に行われる長野オリンピックでもメダルが期待されるようになりました。
そうして迎えたオリンピックイヤーの97-98シーズン。オリンピック連覇を狙うペヒシュタインは絶好調でワールドカップ2戦目では3000mで世界新記録をマークするほど。万全の調子で臨んだ長野オリンピックでは5000mを世界記録で制する圧勝劇を見せて金メダル連覇、さらに前回銅メダルだった3000mでも銀メダルを獲得するなどの実力を見せました。
その後もペヒシュタインは世界オールラウンド選手権で2年連続総合2位。ここまでくると優勝を狙いたくなりますが、その願いは00年に達成。1500m、3000mの2冠を制して総合優勝。まさにスピードスケート界の絶対女王に君臨しました。
ソルトレイクシティ五輪で3連覇達成
クラウディア・ペヒシュタインの勢いは止まらず、02年もソルトレイクシティオリンピックに出場。ここでも5000mで金メダルを取り、なんとリメハンメルオリンピック以来、3大会連続の金メダル3連覇。冬季オリンピックにおいて金メダル3連覇は7人のみで、女子スピードスケート5000mではいまだにペヒシュタインのみの偉業となりました。
さらにこの大会ではこれまで金メダルが取れなかった3000mでも金メダルをゲット。二冠達成を果たし、30歳を超えてペヒシュタインはスケート選手としてピークを迎えました。
ここまでくると、冬季オリンピックでは前人未到となる金メダル4連覇の期待がかかるようになったペヒシュタイン。06年のトリノオリンピックでも当然メダルの絶対的本命候補となりますが、ペヒシュタインはまさかの2位。先に抜け出したカナダのクララ・ヒューズを捕らえることができず、わずか1秒差で4連覇を逃してしまいました。
しかし、これでタダでは帰らないのがペヒシュタインのすごさ。この年から始まったパシュート(追い抜き)競技に出場したペヒシュタインはドイツ代表を牽引して優勝。公式記録となって初の競技で金メダルに輝きました。
ドーピングトラブルに巻き込まれるも復活
もはやスケート界のレジェンドともいうべき存在になったクラウディア・ペヒシュタイン。引退の二文字は彼女の頭にはなく、38歳で迎えることになるバンクーバーオリンピックでもメダルが有力視されていましたが…09年にペヒシュタインはある騒動に巻き込まれてしまいます。
それは血液ドーピング疑惑。血液検査の数値がこの年の2月に行われた世界選手権後から以上に変化していたとされ、ペヒシュタインはドーピングの疑いをかけられます。30後半になっても衰え知らずのペヒシュタインだけにやっかみの面も多分にありましたが、国際スケート連盟は2年間の出場停止処分を決定。これでバンクーバーオリンピックの出場は不可能になりました。
しかし、ペヒシュタインからしたら全く身に覚えのないこと。そのため、その後、スポーツ仲裁裁判所に異議申し立てをしました。しかし、スポーツ仲裁裁判所も国際スケート連盟の判断を支持。ペヒシュタインは四面楚歌の状態に陥ります。この影響もあって、バンクーバーオリンピックの出場はなりませんでした。
それでもペヒシュタインは諦めずスイス連邦裁判所に訴えて裁判にもっていった結果、ドーピングではなく遺伝によるものと判明し、ペヒシュタインは無罪放免となり、勝訴します。
これで競技に復帰したペヒシュタインですが、オリンピックはすでに終了したばかり。モチベーションの低下が心配されましたが、11年の3月に出場した世界距離別選手権では銅メダルを2つ獲得して復活。その後は14年のソチオリンピックにも出場。女子3000mで3位に入るなどの実績を残しました。高齢になっても活躍したペヒシュタインに惜しみない拍手が送られたのは言うまでもありません。