名前大村直之(オオムラナオユキ)
生年月日1976年2月13日
日本
出身兵庫県西宮市
プロフィール小学校2年から野球を始める。

ボーイズリーグ兵庫を経て、育英高校1年からレギュラー。1992年センバツに出場してベスト8。3年では3番センターを打ち、1993年夏の甲子園で優勝。

同年ドラフト3位で近鉄に入団。1994年ファームで31盗塁をマークし、ウエスタンリーグ盗塁王。9月一軍に昇格。1998年、4月に月間MVPを奪うと、同年は打率.310、23盗塁とフリードオフマンに定着し、ベストナイン、ゴールデングラブ賞をダブル受賞。2001年、16本塁打とパンチ力を披露し、チームのリーグ優勝に貢献。2003年から2年連続打率3割と結果を残すも、2004年近鉄球団の消滅が確定しFA宣言。

福岡バンクホークスと契約して移籍。移籍1年目の2005年、キャリアハイの31盗塁にゴールデングラブ賞を受賞。2006年は、165安打で最多安打のタイトルを獲得し、2007年もキャリアハイの打率.319で2度目のベストナインとホークスでも不動のレギュラーを掴む。しかし2008年、怪我で79試合の出場に終わると、同年オフ、オリックスへトレード移籍。2009年は打率.294と活躍するもチームは最下位に終わる。2010年は、開幕直後に二軍降格すると一度も一軍昇格できず、オフにまさかの戦力外通告。通算2000本安打を目前にして、現役引退。

通算成績は1,789試合、6,566打数1,865安打、78本塁打、568打点、203盗塁、打率.284。最多安打1回、ベストナイン2回、ゴールデングラブ賞3回。育英高卒、左投左打。173センチ、70キロ

育英高校時代、夏の甲子園に出場して全国制覇を成し遂げる

大村直之は、兵庫県西宮市に生まれ、小学2年生から野球を始めます。ボーイズリーグ「兵庫タイガース」を経て、育英高校に進学しました。強豪校でしたが、1年生からレギュラーを奪います。秋季の近畿大会ではベスト8で敗れたため、選考に漏れて補欠1位校となりました。しかし、出場が決まっていた神戸広陵が不祥事で辞退したため、突如センバツ出場が決まります。1番打者として出場した大村は、3戦で14打数7安打の打率5割と大爆発し、チームのベスト8入りに大きく貢献しました。

さらに3年となった1993年夏、兵庫県大会を勝ちあがり実力で甲子園出場を決めました。小柄ながらもチームの3番中堅手として出場し、2年春以上の成果を残します。3回戦までの3試合で2安打に終わりましたが、準々決勝では1安打2打点、準決勝では2安打4打点と大活躍し同校を史上初の決勝戦へと導きました。そして、春日部共栄との決勝では、2度のヒットエンドランが得点に結びつくという、得意の機動力野球を展開します。決勝点もスクイズが失策を誘い、見事1点差で逃げ切りついに全国の頂点に立ちました。

22歳にして、近鉄リードオフマンに定着してベストナイン受賞

夏の甲子園大会で、22打数8安打、打率.364、9打点と大暴れした大村直之は、プロスカウトの注目を集めます。そして、1993年ドラフト会議で、近鉄バファローズから3位指名を受けて入団しました。ルーキーイヤーは、主に二軍での出場となりましたが、打率.296、31盗塁でウエスタンリーグ盗塁王となります。そして終盤に一軍初出場しましたが、すべて守備固めのみに終わりました。プロ2年目の1995年、4月中旬に9番・中堅手で初先発すると初安打、初打点を記録します。すると、中盤以降は主に1番として出場し、打率.270、15盗塁の好成績を残しました。

3、4年目と伸び悩みの時期を過ごしましたが、5年目に外野手レギュラーの座をガッチリ掴みます。開幕から絶好調で、4月に初の月間MVPを受賞すると、同年はほぼフル出場に近い133試合に出場しました。リーグ6位の打率.310、チームトップの21盗塁とリードオフマンとして完全に定着します。中堅手としての守備も鉄壁で、ともに初となるゴールデングラブ賞とベストナインをダブル受賞しました。

いてまえ打線の核弾頭として、12年ぶりのリーグ優勝に貢献

1999年からの2年間、大村直之は打率.250前後と低迷し、チームも2年連続最下位に終わりました。しかし、2001年、近鉄はいてまえ打線が大きく機能し、優勝争いの中心に躍り出ます。大村も、打撃改造してパンチ力をつけると、1番打者でありながら16本塁打と核弾頭として機能しました。近鉄は、3番ローズ、4番中村紀洋の二人で101本塁打を放ち、5番磯部公一も95打点と超強力クリーンナップを形成します。同年投手陣はリーグワーストの防御率4.98だったにも関わらず、リーグトップのチーム打率.280でまさに打力でペナントレースを制しました。

近鉄不動のリードオフマンとして働くも、まさかの球団消滅

2002年、連覇を狙いましたが2位に終わるも、翌年、久しぶりの打率3割に、16本塁打、27盗塁と長打力を維持したままでかつての機動力を復活させます。2004年も大村は2年連続打率3割に22盗塁と、リードオフマンとして十分な働きを見せました。しかしローズが巨人へ移籍したことで戦力ダウンしたほか、近鉄球団がオリックスとの合併騒動に大きく揺れます。プロ野球際へ問題にも発展したため、野球に集中できない状況となります。

当時、大村は選手会副会長を務めており、積極的な署名活動で中心となりましたが、健闘むなしく近鉄は合併により同年限りでの消滅が決まりました。愛着ある球団がなくなったこともあって、オフにFA宣言をします。そして、福岡ソフトバンクホークスとして新たなスタートを切る球団と3年契約を締結しました。

FA移籍したソフトバンクでも安定した成績でレギュラーを掴む

大村直之は新球団でも、外野手のレギュラーを掴み、133試合に出場します。3年連続打率3割こそ逃しましたが、キャリアハイの31盗塁に2度目のゴールデングラブ賞と走攻守でチームに貢献しました。そして、移籍2年目は、さらにギアを挙げます。自身初のフル出場を達成し、打率.294、22盗塁、さらに164安打で最多安打と安定した成績を残しました。3年目も、キャリアハイの打率.319(リーグ3位)で2度目のベストナインを獲得します。それでも移籍後3年間は、プレーオフが壁となり日本シリーズに進出できませんでした。

通算2000本安打目前にして、オリックスで出番を失い戦力外通告

2008年は、故障で出遅れて79試合出場に終わると、チームも歯車が狂いまさかの最下位に転落します。そして同年オフ、村松有人とのトレードでオリックス・バファローズへの移籍が決まります。お互いにFA宣言して移籍したにも関わらず、古巣に戻るという奇妙な現象となりました。それでも実力十分の大村直之は、119試合に出場して打率.291と変わらぬ安定感を見せ付けます。

2009年を終えて、通算1,865安打と2000本安打まで残り135本に迫り、これまでのペースであれば、34歳にして大記録達成となるはずでした。しかし、前年最下位に終わったチームは新監督に岡田彰布を迎え入れて、大幅に若手への切り替えを敢行します。開幕直後に二軍降格となると、一度も再昇格することなく無安打に終わりました。さらにオフにはまさかの戦力外という通告を受けます。天才的なバットコントロールを持っていた大村でしたが、獲得に手を挙げる球団はありませんでした。

3000本安打すら狙えると評されていたはずが、一気に現役引退が訪れます。さらにその後も指導者や解説者としての活動はせず、野球界から姿を消しました。すでに日本を離れて海外生活を送っているとも噂されています。


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