名前 | 加藤哲郎(カトウテツロウ) |
---|---|
生年月日 | 1964年4月12日 |
国 | 日本 |
出身 | 宮崎県宮崎郡佐土原町(現在の宮崎市) |
プロフィール | 1983年ドラフト1位で近鉄に入団。
1988年対南海(現・ダイエー)戦で初勝利。1989年、先発にリリーフにフル回転し、マジック1で迎えた試合にも先発して勝利。同年は7勝1セーブとチームの優勝に貢献。 1991年右肩痛を克服して活躍するが、1992年はファーム暮らし。1994年広島、1995年ダイエーに移籍。1996年退団、野球解説者となる。 のち俳優としても活動し、2001年連続ドラマ「はるちゃん5」にレギュラー出演する。現愛は麻雀教室の講師を務める。 通算成績は151試合、17勝12敗6S、防御率4.60、354回1/3、226奪三振。宮崎日大高卒、右投右打、185cm、86kg |
高卒ながら、近鉄バファローズからドラフト1位指名を受ける
加藤哲郎は、1964年、宮崎県にて生を受け、地元で育ちます。宮崎日大校に進学しましたが、3年間甲子園には縁がありませんでした。そして、1982年ドラフト会議を迎えます。同年の大注目は、甲子園5季連続出場し、一世を風靡した荒木大輔でした。ヤクルトと巨人の2球団は1位指名で競合し、ヤクルトが交渉権を獲得します。クジを外した巨人は、斎藤雅樹を1位で獲得しました。他にも2名の選手がそれぞれ3球団の1位指名で競合する中、加藤は近鉄バファローズから単独1位指名を受けます。宮崎日大校からは、現在監督を務める榊原聡一郎以来の指名であり、1位指名は同校初の快挙でした。
中継ぎとして定着し、伝説の「10.19」でもマウンドに上がる
高卒ルーキーということもあって、まずはファームでの育成からスタートします。ペナントレース終盤に、顔見世でプロ初登板の機会が与えられましたが、4回で2本塁打を浴びるなど3失点するというほろ苦デビューでした。2年目も、同じく最終戦の前の試合に初先発しますが、2回持たずに6失点と一軍で結果を残せません。3年目に至っては、一軍登板ゼロに終わりました。
4年目の1986年から、中継ぎとして一軍に定着しますが、プロ初勝利がなかなか訪れません。そして6年目の1988年、2年ぶりに先発すると5回を1失点に抑え、嬉しい初勝利を手にしました。前年、最下位に転落していた近鉄は、西武と激しい優勝争いを演じます。加藤も、先発にリリーフにフル回転し、終盤には初セーブもマークしました。両チームにマジックが点灯する状況も起こり、先に西武が全日程を終了します。近鉄は残り3試合全てのロッテ戦に、全勝すれば優勝という条件となりました。
10月18日に大勝して、翌日19日のダブルヘッダー2試合に全てがかかります。引き分けすら許されない状況で、何とか第1戦に勝利し、優勝をかけた第2戦に臨みました。勢いに乗る近鉄は、終盤に2度も勝ち越しましたが追いつかれます。そして試合は延長戦に突入するも得点できず優勝の可能性が消滅し、10回裏の最後の守りに就きました。この時、マウンドに上がったのが加藤哲郎でした。先頭打者に四球を許し1死を取って交代し、木下文信が抑えて引き分けに終わります。近鉄は、後に「10.19」と呼ばれた試合を勝ちきれず、西武の優勝が決まりました。
先発中継ぎにフル回転し、優勝がかかった試合も先発して勝利
1989年、前年の悔しさを胸に、近鉄ナインは一丸となりました。加藤哲郎は先発機会も多くなり、主力の一人として前年同様フル回転します。実は登板過多で右肩を故障していましたが、先発3本柱に続く7勝と大きな戦力となりました。勝負どころの西武とのダブルヘッダーでは、助っ人ブライアントが2日がかりの4打数連続本塁打を放ち、マジックをついに1とします。そして優勝がかかったダイエー戦で先発した加藤は、6回1/3を1失点に抑え、見事勝利投手となりました。
日本シリーズでは、舌禍騒動がきっかけとなって大逆転負け
悲願のパ・リーグ制覇した近鉄は、球団にとっても仰木彬監督にとっても初となる日本一を目指します。相手は、強力先発投手陣を持つ巨人でした。本拠地藤井寺球場で行われた第1戦、第2戦を勝利して、敵地東京ドームに乗り込みます。第3戦の先発は、第2戦にもリリーフで登板した加藤哲郎でした。痛む右肩と戦いながらも、6回1/3を3安打無失点に抑え、完封リレーで見事な3連勝を収めます。
完全に近鉄のペースで、悲願の日本一まであと1勝と迫りました。しかし、第3戦後の加藤のヒーローインタビューが、常勝軍団に火をつけることになります。記者の脚色もあって、同年パ・リーグ最下位だったロッテよりも弱いというフレーズがクローズアップされたのでした。
翌日から目の色が変わった巨人は、打線が爆発して一気に3連勝してタイに持ち込みます。そして勝負が決まる第7戦の近鉄先発には再び加藤が指名されました。前回無失点に抑えた巨人打線は、加藤に襲い掛かります。2回表、駒田徳広に先制本塁打を叩き込まれると、4回には連続タイムリーなどでさらに3点を失いました。完全に主導権を奪った巨人はそのまま勝利し、3連敗からの4連勝で奇跡の日本一を成し遂げます。まさかの一言で、球団初の日本一達成を逃がし、加藤はA級戦犯扱いを受けました。
右肩の故障が尾を引き、広島、ダイエーと移籍するも引退
1990年、右肩痛が治らず、一軍登板はわずか1試合に終わります。翌年、怪我を克服して、中継ぎで6勝0敗4セーブと完全復活を見せたかに思えました。しかし、再び右肩を故障すると、加藤哲郎はプロ野球選手としての輝きを失います。1992年の登板が4試合に終わると、翌年は一度も一軍で投げられず、戦力外通告を受けました。
現役続行にこだわり、入団テストを経て、広島東洋カープへ移籍します。右肩への負担を考慮してサイドスローへ転向しましたが、活路を見出せませんでした。さらに福岡ダイエーホークスの入団テストに合格して、再びパ・リーグへの復帰を果たします。しかし、ダイエーでは1試合もマウンドに上がることなく、プロ野球生活にピリオドを打ちました。
引退後は、野球界から離れ、俳優、飲食店など様々な事業を展開
現役引退後は、解説者生活をする傍ら、俳優として新たなチャレンジを開始します。火曜サスペンス劇場や土曜ワイド劇場、さらには連続ドラマ「はるちゃん5」ではレギュラー出演もしました。俳優業に区切りをつけると、飲食店経営に乗り出します。かつての球団名をなぞらえた焼肉店「猛牛軍団」などを展開するも倒産に至りました。現在は、麻雀教室の講師に転身して新たな人生を歩んでいます。