名前北川博敏(キタガワヒロトシ)
生年月日1972年5月27日
日本
出身兵庫県伊丹市
プロフィール宝塚リトルリーグで野球を始め、中学からは埼玉県志木市に転居。

大宮東高では3番捕手で3年の時、夏の甲子園に同校として初出場。日本大学でも3年の春首位打者を獲得。“田淵2世”といわれ1994年ドラフト2位で阪神に入団。

1995年7月のジュニアオールスターゲームでMVPを決める逆転タイムリーを放った。1998年、12年ぶりとなるチームのウエスタン・リーグ優勝に貢献。

2000年10月近鉄にトレードされる。2001年9月対オリックス戦で、リーグ優勝を決める代打逆転満塁サヨナラホームランを放つ。2004年、打率.303、20本塁打、88打点とキャリアハイの成績を残す。同年、近鉄球団消滅後、分配ドラフトでオリックスへ移籍。

一塁手レギュラーとして、長年活躍し、2007年には選手会長就任。しかし2011年、アキレス腱断裂の大怪我を負い、2012年現役引退。その後オリックスフロントとして働き、2016年から打撃コーチ。2017年からはヤクルトの打撃コーチを務める。

通算成績は1,264試合、3,902打数1,076打、102本塁打、536打点、29盗塁、打率.279。大宮東高卒、日本大学卒、右投右打。180センチ、90キロ

豪打で甲子園初出場へ導き、田淵2世の異名で阪神に入団

北川博敏は、兵庫県伊丹市に生まれ、明るくて元気な幼少期を過ごします。当時から宝塚リトルリーグで、野球を始めていました。小学校卒業と同時に、埼玉県志木市に転居し、埼玉県立大宮東高等学校へ進学します。強打の捕手として打線をリードし、3年時には強力打線で、同校初の甲子園出場を目指しました。主将3番として出場し、準々決勝では13-6、準決勝でも7-0と危なげなく勝ち進みます。そして浦和学院との決勝戦では、自身が本塁打を含む5打数5安打3打点、大宮東高校が全員安打を記録するなど12-2で快勝し、夢の甲子園行きを決めました。

初の聖地でも、大宮東打線は特徴を見せました。高知商業との1回戦では、初回に先制を許すも、その裏6点を取ってすぐさま逆転します。その後7回終わって7-6とリードしていましたが、4失策が響き終盤の8回、9回で5点を失い初戦敗退となりました。秋の明治神宮野球大会でもベスト4を記録して、卒業後は日本大学へ進学します。2年秋季に42シーズンぶりの優勝を成し遂げ、3年春季では首位打者を獲得しました。強打の捕手として名を馳せて、日米野球日本代表にも選出されます。田淵2世とも呼ばれた北川は、1994年ドラフト会議で、阪神タイガースを逆指名し2位で入団しました。

強打の捕手として期待されるも、開花せずに近鉄へトレード

打てる捕手として入団した当時、阪神の捕手は関川浩一、山田勝彦がレギュラーを争い、ベテランとしても木戸克彦が控えるという狭き門でした。それでも北川博敏は、1年目のジュニアオールスターでMVPを獲るなど、目立った活躍を見せて、同年8月に初めて一軍昇格を果たします。その後、初先発マスクに初安打などようやくプロスタートを切りました。

得意の打撃を披露して捕手レギュラー争いに割って入りたいところでしたが、まったく結果を残せない日々が続きます。1997年の一軍出場はわずか2試合に終わり、同年オフには中日から矢野輝弘がトレード移籍して、益々出番がなくなりました。矢野が即正捕手の座を奪い、1999年からは打撃を生かすために内野手を守るようになります。同年、39試合に出場しましたが、打率.152に終わります。2000年も10試合出場に留まり、オフにはトレードで近鉄バファローズへの移籍が決まりました。

近鉄主力打者として、代打逆転サヨナラ満塁優勝決定本塁打を放つ

阪神時代は、6年で0本塁打と大きく期待を裏切り、近鉄入団後は背水の陣でバットを振り続けました。するとこの姿勢が梨田昌孝監督に評価されて、一軍定着します。捕手や一塁手として出場し、4月にプロ初本塁打、5月には自身初のサヨナラ安打を放ちました。近鉄は前年まで2年連続最下位でしたが、強力いてまえ打線を武器に、西武、ダイエーとの激しい優勝争いを展開します。そして勝負どころの9月下旬、西武のエース松坂大輔から、ローズがシーズン55号、さらに2点差の9回に北川が本塁打して1点差に詰め寄ると、主砲・中村紀洋がサヨナラ2ランを放ってマジックを1としました。

12年ぶりの優勝が目前に迫り、9月26日の地元大阪ドーム最終戦であったオリックス戦を迎えます。5-2と3点リードされてついに最終回まできました。マウンドには、防御率0点台のクローザー大久保勝信があがります。しかしここから怒涛の攻撃を見せて無死満塁のチャンスを掴むと、梨田監督はすでにサヨナラ打2本を放っていた北川博敏を代打に起用しました。4球目を叩くと、あっという間にボールはバックスクリーンに吸い込まれます。代打逆転満塁サヨナラ本塁打で優勝を決めるという、以後プロ野球名シーンに必ず選ばれる偉業を成し遂げました。

キャリアハイの成績を残すも、プロ野球再編問題で近鉄球団が消滅

連覇を狙った2002年、故障が響き43試合出場と不本意な成績に終わります。しかし、2003年は規定打席不足ながら、初めての打率3割に二桁本塁打を実現しました。2004年には正式に内野手に転向すると、一塁手レギュラーとして自身初のフル出場を果たします。さらに、アテネ五輪で離脱した中村紀洋に代わって一時は4番を任されるなど、打率.303(リーグ15位)、20本塁打、88打点とキャリアハイの成績を収めました。しかし、シーズン途中から球団合併騒ぎが勃発し、最終的には近鉄が消滅してオリックスとの合併が決まります。分配ドラフトが行われ、翌年からオリックス所属となりました。

オリックスでは、数年間チームの顔として働くも大怪我で低迷

新生オリックス元年、北川博敏は5番打者として開幕スタメンに名を連ねます。チームトップの67打点と気を吐きましたが、プレーオフ進出圏内3位に入れませんでした。その後も、2007年には選手会長を務めるなど、6年連続100試合出場してチームの顔となります。しかし、チームは2008年の2位以外は、Bクラス常連と大きく低迷しました。

2011年からは怪我に苦しみます。同年キャンプから左腓骨骨折と肉離れを併発させると、シーズン中盤に、アキレス腱断裂の大怪我で後半のシーズンを棒に振ります。翌年、開幕スタメンで復活出場を果たしましたが、往年の輝きは失われ、59試合出場するも、打率.221、1本塁打、11打点と不本意な成績で終わりました。

現役引退後は、フロント業務経験後に指導者としてコーチに就任

結局、2012年限りで現役引退を発表します。プロ入団した阪神では、まったく芽が出ませんでしたが、近鉄時代に大きな仕事を成し遂げると、オリックスでは引退試合を企画されるまでに成長しました。引退後は、球団の事業本部企画事業部プロジェクトマネジャー(PM)に転身し、初めて裏方業務を経験します。2016年、オリックスの打撃コーチを経て現場復帰すると、2017年からはヤクルトの二軍打撃コーチに就任しています。


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