名前西崎幸広(ニシザキユキヒロ)
生年月日1964年4月13日
日本
出身滋賀県大津市
プロフィール滋賀・瀬田工時代は控の投手として甲子園に出場。愛知工業大学に進み、1986年春、1試合23奪三振の快記録を作り一躍注目される。大学通算37勝(13敗)のリーグ記録を樹立し、秋の大学選手権では駒沢大学を完封して初優勝をかざった。

1987年ドラフト1位で日本ハムに入団。1年目から15勝(7敗)をあげながら新人王がとれず、パ・リーグ会長特別賞を受賞した。1988年には最多勝、ベストナインを獲得。1995年7月対西武戦でノーヒット・ノーランを達成。同年8月100勝達成。日本ハム時代は、球団最多の8度の開幕投手を務めた。

1998年西武に移籍するが、右脇腹を挫傷。1999年クローザーに転向。2001年シーズン終了後引退。

通算成績は330試合、127勝102敗22S、防御率3.25、2,004回0/3、1,573奪三振。最多勝1回、ベストナイン1回、ゴールデングラブ賞2回。愛知工業大学卒、右投右打、180cm、76kg

大学時代に投手として頭角を現し、ドラフト前に注目される

西崎幸広は、滋賀県大津市に生まれ、小学3年生当時、若年性リューマチで入院するほど身体は強くありませんでした。しかし、医師にスポーツを禁じられてもこっそり野球を楽しみます。瀬田工業高校に進学すると、1980年には、春夏連続で甲子園初出場を決めました。自身の出番はありませんでしたが、夏はいきなりベスト4にまで上り詰めます。3年春には控え投手として、自身初めて甲子園の土を踏みました。明徳高校(現在の明徳義塾)と対戦し、大量リードされた7回にマウンドに上がりましたが3回2失点と結果を残せません。3年夏は、県大会で敗れて甲子園帰還はなりませんでした。

卒業後に、愛知工業大学へ進学すると、投手として大きく頭角を現します。勝利を積み重ね、4年生春には1試合23奪三振という記録を達成し、大学通算でリーグ新記録の37勝をマークしました。1986年秋には明治神宮野球大会で愛知工業大学の初優勝に貢献します。そのわずか1週間後が、ドラフト会議だっただけに西崎の注目度はさらにあがりました。

ルーキーから15勝を挙げて阿波野秀幸とハイレベルな新人王争い

1986年、ドラフト会議では高校生投手・近藤真一に5球団の1位指名が集中します。そして抽選を外した日本ハムが、西崎幸広を指名して入団が決まりました。外れ1位ながら高評価した球団は、土橋正幸、高橋直樹らが背負ったチームのエースナンバー21を用意します。西崎もルーキーイヤーからその番号に恥じない活躍を見せました。

一軍初登板はリリーフで敗戦投手となりましたが、4月末に先発した試合で1失点完投で初勝利を奪います。するとローテーション投手に定着して、チープトップ、そしてチーム唯一の二桁15勝をマークしました。防御率もリーグ5位の2.89と新人王にふさわしい成績でした。しかし、同期入団の阿波野秀幸(近鉄)も同じく15勝でリーグ4位の防御率と甲乙つけがたい成績を残します。それでもリーグトップの249回2/3を投げ、201三振で最多奪三振のタイトルを奪った阿波野に軍配が上がり、新人賞受賞を逃します。ただ西崎には、パ・リーグ会長特別賞が授与されました。

トレンディエースと呼ばれ、最多勝に5年連続二桁勝利を達成

1988年に開幕投手を任されると、2年目のジンクスはまったくなく、前年同様白星を積み重ねます。そして同僚の松浦宏明、渡辺久信(西武)と並ぶ15勝で、自身初の最多勝タイトルを獲得しました。防御率もリーグ3位、さらにともにリーグトップの投球回数、21完投など完全にエースに就任します。開幕投手も1991年まで4年連続で務め、入団以来5年連続二桁勝利と球界を代表する投手に成長しました。

また新人王を争った阿波野秀幸や渡辺らとともに、従来のプロ野球選手像とかけ離れたルックスなどで人気も博します。長身細身で私服もお洒落ということで、当時流行していたトレンディドラマになぞらえて、トレンディエースと呼ばれていました。

球団最多の8度の開幕投手を務めるも、首脳陣と衝突して移籍

1992年、6年連続の二桁勝利を逃すと、それまでの登板過多から不本意なシーズンが続きます。1993年には11勝かつ防御率2位と復活したかに思えましたが、翌年には8勝14敗でリーグワーストの敗戦数と安定しませんでした。1995年、7月に史上60人目のノーヒット・ノーランを達成しましたが、トータル成績は7勝8敗と自身初めて2年連続で負け越しを経験します。そしてプロ9年間、7度の開幕投手を務めるも、一度も優勝経験がありませんでした。

ところが1996年、かつての快投が復活して前半戦で首位に立ちます。久しぶりに最多勝、最優秀防御率争いにも顔を出しましたが、後半打線が湿り、首位を明け渡しました。それでも7度目の二桁勝利を達成する14勝に、リーグ4位の防御率2.87と意地を見せます。1997年、球団最多となる8度目の開幕投手を任されましたが、怪我で戦線離脱すると7月まで一軍に戻ってこられませんでした。結局同年は3勝に留まり、首脳陣との軋轢も明るみに出ます。すると同年オフには、戦力外通告に近い扱いを受け、石井丈裕、奈良原浩との1対2の交換トレードで西武ライオンズへ移籍が決まりました。

西武時代はリリーフに転向し、一時はクローザーとして20セーブ

日本ハムを追われる形で西武に入団しましたが、西武・東尾修監督の評価は高いものでした。移籍1年目の1998年、故障が長引きわずか4試合の登板に終わります。しかしチームはリーグ連覇して、自身初の日本シリーズ登板をリリーフで経験しました。日本一は逃しましたが、2試合に登板して1セーブとリリーフの適正を見せます。そして同年のドラフト会議で、松坂大輔を獲得すると、監督から直々に手本として指名されました。

1999年はクローザーに転身して、松阪のプロ初勝利をセーブで締めるなど、33試合に登板し、チームトップの20セーブをマークします。2000年はクローザーの地位を、森慎二に譲り、久々の先発も経験するなど、22試合で6勝をあげました。

通算127勝で現役引退し、その後は解説者として過ごす

2001年、36歳でシーズンを迎えると、再び故障に悩まされ8試合の登板に終わります。西崎幸広は限界を感じ、同年限りでの現役引退を表明しました。その後は、指導者へ転身することなく、野球解説者として過ごしています。2008年からは、古巣日本ハムのOB会会長に就任しています。


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