名前小林雅英(コバヤシマサヒデ)
生年月日1974年5月24日
日本
出身山梨県大月市
プロフィール小学2年で野球を始めて以来、投手として活躍。

都留高から日本体育大学に進む。大学1年の春には入学前に米国遠征にも参加。3年の時の大学選手権では4強に進む。1995年のリーグ戦ではベストナイン、続く秋に最優秀投手賞に選ばれる。大学通算16勝。のち東京ガスに入社。

1999年ドラフト1位でロッテに入団。以後、中継ぎ、抑えのエースとして活躍し、同年5月対日ハム戦で初勝利を挙げる。2001年、6日間連続セーブの日本新記録。2002年17試合連続セーブのパ・リーグ新記録を達成。2004年アテネ五輪日本代表。140キロ台のストレートと鋭いスライダーが武器。2005年、29セーブで最多セーブ投手のタイトルを奪い、日本一を達成。

2007年オフ海外FA権を行使して、クリーブランド・インディアンスへ移籍。1年目はメジャーで戦い57試合に登板するも、2年目5月にマイナー降格すると、7月に解雇される。

2010年は巨人、2011年はオリックスと契約するもかつての活躍を見せられず同年現役引退を表明。2012年からオリックス二軍育成コーチ就任。2015年からは古巣ロッテの一軍投手コーチに就任。

NPB時代の通算成績は463試合、36勝34敗228S、4ホールド、防御率2.93、599回0/3、465奪三振。最多セーブ投手1回。

MLB時代の通算成績は67試合、4勝5敗6S、2ホールド、防御率5.10、65回1/3、39奪三振。都留高卒、日本体育大学卒、182センチ、78キロ。右投右打

大学時代に頭角を現し、東京ガスでプロスカウトの目に留まる

小林雅英は山梨県大月市で生まれ、小学2年生から野球を始めます。当時から投手を務め、大月東中、都留高へ進学しましたが、甲子園出場経験もなくまったく無名の存在でした。卒業後は高校野球指導者になることを目指し、日本体育大学へ進学します。すると、投手としての才能が一気に開花し、首都大学野球で輝き始めました。29試合に登板して16勝を挙げ、MVP1回、ベストナイン2回受賞、さらに日米大学野球日本代表にも選出されるようになり、はっきりとプロへの意識が表れます。そして自身に2年という期限を設けて、東京ガスへ進むと、その2年目に水谷則博スカウトの目に留まりました。

リリーフとしての適正を見出され、2年目にクローザーに抜擢

1998年ドラフト会議、甲子園春夏連覇を達成した松阪大輔が主役となる中、小林雅英は千葉ロッテマリーンズを逆指名してドラフト1位で入団しました。高卒ルーキーと異なり、大学、社会人出身のため即戦力として期待されます。開幕4試合目にリリーフでプロ初登板し、5月には初勝利と順調に階段を登りました。また8月からは先発に起用されると、その後3完投を記録するなど非凡な才能を見せ付けます。ルーキーイヤーは、46試合に登板して5勝5敗、防御率2.68とまずまずの成績を収めました。

2年目は開幕第2戦に先発として抜擢されましたが、そこから3連敗し、リリーフ専門となります。4月の試合で無死満塁を無失点で切り抜けると、不調だったウォーレンに代わってクローザーに抜擢されました。すると、プロ野球史上初の打者0人勝利投手になるなど、勝ち運もあり、同年は11勝とチーム2番目の勝ち頭になります。シーズン終盤まで安定したピッチングで11勝6敗14セーブ、防御率2.13の成績を残し、クローザーの座を守りました。

幕張の防波堤として、数々のセーブ記録を樹立し日本代表にも選出

2001年からは、完全にロッテのクローザーとして君臨します。同年は、プロ野球新記録の6日間連続セーブをあげて初の月間MVPを獲得するなど、33セーブをあげました。さらに翌年は、プロ野球記録の33試合連続セーブポイント、パ・リーグ記録の17試合連続セーブなど37セーブをマークして、防御率0.83とまさに守護神として活躍します。2003年には日本人最速100セーブと、一気に球界を代表するクローザーに名乗りを上げました。

3年連続30セーブも達成した小林雅英は、アテネ五輪日本代表にも抜擢されます。岩瀬仁紀とともに、日本代表のクローザーとして銅メダルに貢献しました。2004年は五輪の影響もあって20セーブに留まり4年連続30セーブを逃します。またセーブ数は、チームの勝敗に大きく影響しますが、自身入団後オールBクラスのため、セーブ王のタイトルには縁がありませんでしたが、幕張の防波堤として恐れられました。

初めてセーブ王タイトルを奪い、3度の胴上げ投手で下克上日本一

2005年、チームの監督にバレンタインが復帰すると、日替わりのマリンガン打線がフィットし好スタートを切ります。リリーフ陣も、薮田安彦、藤田宗一、小林雅英の3名が「YFK」として勝利の方程式を形成し、見事交流戦も制しました。先発投手陣は6人が二桁勝利達成、薮田がチーム最多の51試合登板、藤田が自身最多の24ホールド、そしてクローザー小林も29セーブながら最多セーブ投手のタイトルを奪取と好成績を残します。10年ぶりのAクラス2位を達成すると、プレーオフも勝ち抜き日本シリーズ進出を果たしました。

完全に勢いに乗ったチームは手がつけられず。阪神との日本シリーズに4連勝、さらにアジアシリーズも制して、ファームの日本一もあわせて一軍二軍で6冠を達成します。この間、YFKの砦としてマウンドに立った小林は、プレーオフ第2ステージ、阪神との日本シリーズ、そしてアジアシリーズと3度の胴上げ投手となりました。

メジャー挑戦するもわずか6セーブに終わり、2年目途中に解雇

その後も最速の通算200セーブを達成するなど、2007年にはプロ野球史上初の7年連続20セーブを達成しました(後に岩瀬仁紀が更新)。そして同年オフに海外FA権を行使してメジャー挑戦を表明します。クリーブランド・インディアンスとの2年契約が決まり、通算227セーブの実績をひっさげて33歳で海を渡りました。

4月下旬、リリーフで初登板した試合で初勝利を手にすると、年間を通じてメジャーでプレーします。防御率は4.53でしたが、57試合に登板して4勝5敗6セーブと戦力の一人として活躍しました。しかし、2年目は一転して不振に陥り、5月中旬にマイナー降格を経験します。その後メジャーに復帰することなく、7月で契約を解除されました。

日本球界に復帰するも、通算250セーブ達成できずに現役引退

解雇通知後もメジャーでのプレーを希望していましたが、獲得球団はなく帰国します。そして2009年12月、巨人と契約して日本球界復帰が決まりました。35歳のベテランながら、経験あるリリーフとして期待されます。しかし不安定な投球が続き、クローザー・クルーンが故障離脱したときですら、代役が回ってきません。二軍降格も繰り返し、同年限りで戦力外通告を受けました。

オフに12球団トライアウトを受験すると、好投を見せてオリックス・バファローズ移籍が決まりました。しかし、すでに輝きを失っており、一軍登板は6試合に終わりセーブを記録できずにシーズンが終わります。結局、名球会入り条件の250セーブを目前にして現役引退を表明しました。

引退後は指導者に転身して、2015年から古巣で投手コーチ就任

現役引退後は、そのまま球団に残り、オリックス・バファローズの二軍育成コーチに就任しました。そして、2015年からは古巣・千葉ロッテの一軍投手コーチとして復帰を果たしました。同年5月には、かつて優勝に貢献したYFK3人が揃って始球式に登場します。この時も、小林雅英はもちろんオオトリとして登場しました。


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