名前岡林洋一(オカバヤシヨウイチ)
生年月日1968年4月11日
日本
出身パラグアイ・イグアス
プロフィール父親が移住したパラグアイで生まれ、中学2年まで育つ。この間、小学4年生からイグアス少年野球チームで投手をし務める。

鏡野中を経て、高知商に進学し、1986年夏の甲子園でベスト8。専修大でもエースとして東都大学では小池(亜大)と並ぶ通算28勝を挙げ、1990年ヤクルトにドラフト1位で入団。

1991年、15勝を挙げリーグ優勝に貢献。エースとして活躍するが、その後右肩、右ひざを故障。ブランクののち1997年公式戦に復帰。1999年9月対巨人戦で879日ぶりに勝利投手となる。

2000年シーズン終了後、引退。引退後は二軍投手コーチ。2005年からはヤクルトスカウトに就任。

通算成績は175試合、53勝39敗12S、防御率3.51、766回0/3、472奪三振。高知商業高卒、専修大学卒、右投右打、180cm、76kg

甲子園ベスト8、専修大学でもエースとして活躍して通算28勝

岡林洋一は、父の仕事の都合で、南米パラグアイにて生まれます。小学4年生から、日系人が多いイグアス移住区の少年野球チームに入りました。投手として頭角を現し、エースとしてパラグアイ中学生全国大会でも連覇を飾ります。そして3連覇を狙いましたが、日本への帰国が急遽決まり、決勝のマウンドには上がれませんでした。

その後、鏡野中を経て、名門・高知商業高校に進学しました。1学年上に豪腕・中山裕章がおり、自身2年生の時、チームは夏の甲子園に出場して全国ベスト8を成し遂げます。しかし、全試合にエース中山が登板したため登板はありませんでした。そして3年の夏は、自らエースとして県大会を勝ち抜き、2年連続の甲子園出場を決めます。初戦の2回戦では延長11回を完投勝利し、3回戦も2-1と辛勝して準々決勝進出しました。しかし、準決勝の浦和学院戦では、「左の清原」と呼ばれた鈴木健に本塁打を打たれるなど、0-4で敗戦し、先輩・中山と同じくベスト8で聖地を去りました。

その後進学した専修大学でも快投は続きます。3年時はエースとして、優勝に貢献し、MVP,ベストナインなど賞を総なめにしました。4年間で通算28勝18敗、防御率1.85、248奪三振という好成績を残します。東都大学リーグでの28勝は、大学No.1投手といわれた同期の小池秀郎(亜細亜大学)と同数でした。

外れ1位指名ながら、即戦力として活躍して12勝12セーブ

1990年ドラフト会議では、小池秀郎の1位指名で史上最多の8球団が集中しました。結局、小池は交渉権獲得したロッテを拒否して社会人に進み、岡林洋一はその外れ1位指名でヤクルトスワローズに入団します。すると即戦力の触れ込みどおり、ユーキーイヤーから大活躍を見せました。開幕第3戦目にリリーフで初登板すると、5月に初勝利、初セーブをマークし、固定されていなかったクローザーに就任します。終盤には先発として完投勝利するなどフル回転し、12勝6敗12セーブの好成績をあげました。

日本シリーズで敗れるも、3完投430球の熱投を見せる

2年目の1992年は、先発ローテーション投手の柱としてチームを牽引します。同年は、野村克也が監督就任して3年目にあたり、一気にセ・リーグ優勝争いの中心となりました。岡林洋一はチームトップの15勝をマークし、14年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献します。そして、岡林の名をさらに全国区としたのは、西武ライオンズとの日本シリーズでした。

西武は1986年から6年間で5度日本一とまさに黄金時代を迎えていました。戦前でも圧倒的にヤクルトは不利とされていましたが、エース岡林は第1、4、7戦にいずれも先発して立ちふさがります。第1戦では延長12回を完投して、チームのサヨナラ勝利に貢献し、第4戦では9回完投しましたが、1本の本塁打に泣きました。3勝3敗のタイで迎えた最終第7戦も1-1のまま延長戦に入ります。結局、10回表の犠牲フライが決勝点となり、ヤクルトは敗れました。岡林は延長戦2試合を含む3戦すべてに完投し、30イニング、430球、防御率1.50という凄まじい成績を残します。投手分業制が当たり前の時代に、驚きの投球をしたにもかかわらず、日本一にはなれませんでした。

酷使による故障は長引き、3度の日本一に全く貢献できず

一躍、岡林洋一は球界を代表するエースとなりましたが、2年間の酷使がたたり、思うような成績が残せなくなります。1993年のヤクルトは二桁勝利投手が4人誕生するなどリーグを連覇し、日本シリーズでも西武を破って悲願の日本一を達成します。しかし、岡林自身はシーズン5勝に終わり、シリーズでの登板はありませんでした。

1994年は、チームトップの11勝をマークして一時復活を見せます。そして1995年は、初の開幕投手を任されると、ヤクルトはリーグを制し、日本シリーズでもオリックス相手に4勝1敗と全く寄せ付けませんでした。しかし、岡林はシーズン7勝に留まり、8月に右肩、右膝を痛め戦線離脱を余儀なくされていました。その後は、リハビリしても肩の痛みが治まらず、1996年、1998年は一軍登板なしに終わります。ヤクルトは、1997年も日本シリーズを制し、5年間で3度の日本一とまさに黄金時代でした。しかし、岡林は3度のシリーズで一度もマウンドにすらあがれませんでした。

怪我からの復活は実現せずに、コーチを経てスカウトに転身

1999年から中継ぎとして復帰しましたが、無意識のうちに怪我を負った右肩をかばい腕が振れなくなります。同年、879日ぶりの白星をあげましたが、かつての輝きはまったく失われてしまいました。そして2000年限りで現役引退を表明します。プロ生活は10年間でしたが、実質的に活躍できたのは入団からの4年間であり、選手時代晩年は、怪我との戦いが主でした。

引退後は、そうした経験を武器にヤクルトの二軍投手コーチに就任します。丸4年コーチを務めた後は、スカウトに転身しました。現在は、金の卵が一瞬見せる輝きを見逃さないために、全国津々浦々スピードガン片手に試合、練習を見回る毎日を送っています。


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