名前佐藤誠(サトウマコト)
生年月日1975年6月12日
日本
出身山形県天童市(北海道千歳市)
プロフィール山形県で生まれ、小学生時代に北海道千歳市に転居すると軟式野球を始める。駒大岩見沢高で速球を武器に右の本格派投手として活躍。1992年センバツでは初戦敗退。1993年センバツでは左腕の羽沢正樹と二枚看板で活躍し、ベスト4に進出。

1994年ドラフト5位で巨人入団。1997年充に改名。2000年12月ダイエーに移籍。2001年登録名を本名の誠とする。2003年、中継ぎとして定着してチームの日本一に貢献。

2004年はキャリアハイの40試合に登板。その後も貴重な中継ぎとして戦力となるも、年々防御率をおとし2009年オフに戦力外通告。2011年から巨人打撃投手に就任。2015年は監督付マネージャー。現在は一軍サブマネージャーを務める。

通算成績は209試合、16勝8敗1S、18ホールド、防御率4.14、239回1/3、145奪三振。駒大岩見沢高卒、181センチ、85キロ、右投右打

北海道勢として30年ぶりのセンバツ甲子園ベスト4を達成

佐藤誠は、山形県で生まれましたが、小学生時代に北海道千歳市へ転居します。そしてその頃から、軟式野球を始めました。駒大岩見沢高校へ進学すると、1年生から活躍して、秋季全道大会で優勝を収めます。そして文句なしで1992年のセンバツ出場を決めました。当時から、右腕・佐藤と左腕・羽沢正樹の投手2枚看板は健在で、初戦の育英高校戦に挑みます。しかし、先発した佐藤、リリーフの羽沢がともに打ちこまれて0-8と完敗しました。

2年夏は、南北海道でベスト8にも残れず、春夏連続出場は逃します。ただ、秋季大会につよい駒大岩見沢は、2年連続で全道大会を制して、2年連続でのセンバツ出場を手中に収めました。エースとなった羽沢が、2回戦で赤星憲広率いる大府高校、3回戦で前年秋の神宮大会を制した世田谷学園と、ともに優勝候補を破るという快挙を成し遂げます。準々決勝の八幡商戦では、ヒグマ打線が爆発して12点を奪うと、佐藤も3回から登板して7回を2失点に抑えてベスト4に進出しました。北海道勢30年ぶりの4強に地元は大いに盛り上がり、さらなる高みを目指して上宮高校との準決勝に挑みます。しかし、投手2枚看板はともに打ち込まれて4-11で敗れました。

ドラフト5位で巨人入団も、6年間でわずか5試合の登板に留まる

1993年ドラフト会議で、巨人から5位指名を受けて入団します。同年、長嶋茂雄が監督として復帰しましたが、投打ともに不振に陥り3位に終わりました。投手陣のてこ入れのため、ドラフト指名5名中3名は投手でしたが、高卒ルーキーの岡島秀樹(3位指名)、佐藤誠はファームスタートとなりました。

1997年、全く一軍を経験せず4年目を迎えると心機一転で充に改名するとシーズン終盤の消化試合ながらプロ初マウンドを経験します。1998年は、中盤に一軍昇格して2試合に登板しましたが、3失点すると以降同年の出番はありませんでした。常勝を義務付けられた球団のため、毎年強力な新戦力が入団します。新球シュートを覚えて新たなピッチングスタイルを求めましたが、2000年は2試合で防御率37.80というありえない数字を残してしまいました。

ダイエーへ移籍するも、強力リリーフ陣を前に一軍定着できず

2000年オフ、日本シリーズを戦った巨人とダイエーの間で、大野倫と吉永幸一郎+金銭のトレードが発表されましたが、ダイエーが金銭を拒否したため、佐藤誠のトレードも決まります。2001年からは、登録名を本名の「誠」のみにしてリスタートを図りました。

当時のダイエーはリーグ連覇しており、特にリリーフ陣は篠原貴行、吉田修司、渡辺正和、長富浩志ら経験あるメンバーが健在です。自身も、8試合の一軍登板機会を与えられましたが、防御率5.40と強力リリーフ陣に割ってはいるほどの活躍を見せられませんでした。しかし2002年、登板数は7試合とほぼ前年と変わらないものの、防御率1.42と確かな成長を見せていました。

シュートを武器に中継ぎに定着して、チームの日本一に貢献

2001年から連続2位と優勝を逃すと、ダイエーリリーフ陣はベテランが多かっただけに陰りが見え始めます。するとプロ9年目の佐藤誠はチャンスを手にしました。巨人時代に覚えたシュート、そして新たにカットボールも修得して左右の揺さぶりで打者を抑えるコツを身につけます。中継ぎとして31試合に登板し、プロ初勝利を含む3勝3敗、防御率2.98とチーム3年ぶりの優勝に大きく貢献しました。阪神との日本シリーズでは、1試合のみの登板でしたが、大舞台でもしっかり仕事をこなします。そして4勝3敗でシリーズを制し、初めて自身も活躍して日本一を味わいました。2004年、プレーオフで敗れて連覇はなしえませんでしたが、チーム2位タイの40試合に登板します。防御率3.74と前年よりも数字を落としましたが、中継ぎとしての地位を磐石なものとしました。

ミスタースクランブルとしても活躍し、チームから重宝される

その後、シュートを操る投手としての宿命でもある肘痛と戦いながらも、ホークスの中継ぎとして存在感を示します。登板数は20試合前後でしたが、ミスタースクランブルとも呼ばれ、先発投手がアクシデントの際には、飄々と役割をこなしました。それほど目立つ活躍ではなかったものの、なくてはならない存在となります。地元北海道を本拠地とする日本ハムからは、佐藤誠を移籍させたいと毎年オファーがありましたが、ホークスは離しませんでした。

2007年、当初は絶好調で防御率1点台でしたが、中盤から不調に陥ると最終的には4.08まで数字を悪化させます。すると、そこから2年連続でさらに数字を落とし、2009年には6.56という数字でシーズンを終えました。2010年は、一軍登板から遠のきます。結局同年の登板は一度も与えられず、オフに戦力外通告を受けました。

現役引退後は、古巣の打撃投手など裏方としてチームを支える

現役引退後は、かつての古巣巨人へ戻り打撃投手に就任しました。その後、2015年には、打撃投手を務めながら原辰徳監督付マネージャーにも就任します。同年には、スタッフとしてでしたが、初めてオールスターゲームの雰囲気を味わいました。現在は、一軍サブマネージャーを務めています。

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