名前 | 山本昌広(ヤマモトマサヒロ) |
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生年月日 | 1965年8月11日 |
国 | 日本 |
出身 | 神奈川県茅ケ崎市 |
プロフィール | 日大藤沢高では完全試合を達成。
1984年中日にドラフト5位で入団。怪我などで伸び悩み、1988年米国に野球留学。ドジャースの1Aベロビーチで13勝6敗、防御率1.55。帰国後の同年9月一軍に上がり、優勝に貢献。 1993年は17勝5敗、防御率2.05で2冠。1994年19勝を挙げ2年連続最多勝と沢村賞を受賞。1997年、球団史上初の3度目の最多勝。2001年8月通算1500奪三振を達成。2008年、史上24年目となる通算200勝を達成。 その後も、大ベテランとなりながらも、先発として毎年勝利をマーク。2012年、中日球団最多勝となる212勝をマーク。2015年、先発登板するも勝利投手となれず、同年現役引退。 通算成績は581試合、219勝165敗5S、防御率3.21、3,348回2/3、2,310奪三振。最多勝3回、最優秀防御率1回、最多奪三振1回、最優秀投手2回、沢村賞1回、ベストナイン2回。日大藤沢高卒、186センチ、87キロ。左投左打 |
無名の選手として過ごすも、1回の好機を掴みプロ指名を獲得
山本昌広は、東京都大田区で生まれ、子どもの頃から当たり前のように野球を始めます。その後、神奈川県へ転居しても、ずっと補欠でプロ入りするような選手ではありませんでした。しかし、中3最後の大会前に、エースが怪我をして繰り上がりで大会手出場するとベスト8まで勝ち上がります。その試合がきっかけとなって、日大藤沢高校へのスポーツ推薦入学が決まりました。
高校時代も無名の存在でしたが、毎日のランニングと練習は欠かさず続けます。それでも強豪神奈川県大会を勝ち抜くことは難しく、ベスト8止まりで甲子園には縁がありませんでした。もちろんプロスカウトの目に留まることはありません。しかし、高校進学時同様、転機が訪れました。韓国高校選抜の来日にあたって神奈川県選抜チームの結成が決まります。本来、別の選手がエース格で居ましたが、日本選抜に選ばれたため、山本が繰り上がりで選抜されました。そしてその試合で好投を見せると、初めてプロスカウトの目に留まります。こうして、中日ドラゴンズからドラフト5位指名を受けることになりました。
中日入団後4シーズン、一軍で全く活躍できないままに終わる
父親がファンだった中日ドラゴンズの選手になったものの、大柄な体格の左腕ということ以外に突出するものはありません。球速も140キロに満たないため、入団して2年間一度も一軍昇格はできませんでした。3年目に1試合、4年目に3試合、一軍マウンドを経験しましたが、ともに打ちこまれます。少ないイニングではあったものの、防御率は27.00、16.20という散々な成績でした。
ドジャース海外留学でスクリューを覚え、帰国後優勝に貢献
5年目にオープン戦の開幕投手を任されるも、初回6失点して失意のまま監督に呼ばれると、まさかのアメリカ留学を言い渡されます。中日はアメリカ大リーグドジャースとの交換留学制度があったのでした。そして、このアメリカ留学が、山本昌広にとっての人生の転機となります。ドジャースの世話役だったアイク生原と出会うと、新しい変化球修得を提案されました。
そして現地の選手が投げていたスクリューボールを試したところ、その後50歳まで現役を続けた山本の伝家の宝刀となります。球速も増してカーブの切れ味も鋭くなると、1Aの試合で好投を続けました。オールスターにも出場し、ついには大リーグからオファーを受けるまでに成長します。投球するビデオを見た中日・星野仙一監督は留学途中にも関わらず日本へ呼び戻しました。当時、中日は優勝争いの架橋にあり、派遣奪還の秘密兵器として山本を投入します。すると8試合に登板して2完封を含む5勝0敗と救世主的な活躍をして、見事優勝に貢献しました。
ローテーション投手に定着して、2年連続最多勝に沢村賞受賞
完全に生まれ変わった山本昌広は、長らくの間、先発ローテーション投手として活躍します。1990年に初めて二桁勝利をマークすると、1992年にはチーム最多の13勝と中日の主力投手へ成長しました。1993年には、チーム内のライバル今中慎二とタイトルを争います。17勝で最多勝を分け合うと、今中が沢村賞、最多奪三振、山本が最優秀防御率と最高勝率と二人で投手タイトルを独占しました。
1994年は、さらにギアを挙げてキャリアハイの19勝で2年連続最多勝に、初の沢村賞に輝きます。特に後半戦は7連勝とチームを支えて大逆襲の原動力となりました。10月に山本の勝利でチーム69勝目をあげて、同日敗れた巨人とついに同率首位で並びます。そして行われたのが、伝説の10.8決戦でしたが、前々日に完投していたため出番はなく、チームも敗れました。
球団史上初の3度の最多勝に、チームの優勝にも何度も貢献
1995年から怪我のため2年間低迷しましたが、1997年は自身初の開幕投手を任されます。本拠地が広いナゴヤドームに変わり、チームが苦しむ中、球場を味方につけて快投を続けました。18勝7敗、防御率2.92(リーグ2位)、159奪三振で、3度目の最多勝に最多奪三振の2冠で復活します。3度の最多勝は球団初の快挙でもありました。
1999年は、打線の援護に恵まれず8勝に終わりましたが、11年ぶりの優勝に貢献します。その後も一般的にはベテランといわれながら、年齢を感じさせないプレーをし続けました。2004年も13勝&防御率リーグ2位で、自身3度目の優勝に大きく貢献します。2006年にいたっては、史上最年長41歳1ヶ月でのノーヒットノーラン(準完全試合)を達成してリーグ優勝を強烈に後押ししました。
史上最年長で通算200勝を達成し、球団最多勝にも上り詰める
2008年、プロ23年目を迎えてセ・リーグ最長の実働年数となります。そして、同年8月、巨人戦で完投勝利し、史上24年目となる通算200勝を達成しました。42歳11ヶ月での200勝と完投勝利はともに史上最年長記録でしたが、同月は史上最年長で月間MVPも獲得し、自身10度目の二桁勝利も達成します。2009年以降は、フル回転とは行きませんでしたが、投げるたびに史上最年長記録を更新していきました。2010年には史上最年長完封勝利、2012年には球団最多勝となる通算212勝目をあげます。そして2014年まで、必ず先発としてマウンドに立ち、最年長勝利記録を更新しました。
生きるレジェンドとして現役選手を続け、50歳でついに引退
2014年9月、先発して勝利を収め、NPB史上最年長出場記録と史上最年長勝利投手記録を更新します。2015年も、登板・出場・先発の最年長記録を塗り替えましたが、勝利を挙げることができませんでした。ついに現役引退を決意し、50歳1ヶ月で迎えた10月、先発として出場します。打者一人だけでしたがアウトをとって、マウンドに別れを告げました。
実働29年という誰よりも長い期間、プロ野球選手として過ごし、10度の二桁勝利を挙げて、リーグ優勝も実に6度経験しました。当然、日本シリーズでも登板しましたが、一度も勝利投手になれませんでした。