名前 | 中村武志(ナカムラタケシ) |
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生年月日 | 1967年3月17日 |
国 | 日本 |
出身 | 京都府 |
プロフィール | 花園高校時代、甲子園出場経験無し。
1985年ドラフト1位で中日に入団。入団後2年間、一軍出場無しに終わる。1987年一軍に上がった。1988年、6月以降捕手レギュラーに抜擢されて、リーグ優勝に貢献。1994年“恐怖の8番”といわれるほど成績をあげる。1995年キャプテンに就任。1999年リーグ優勝に貢献。 2001年オフ、FAで谷繁元信が加入するタイミングで、トレードで横浜へ移籍。2004年11月、トレードで新規参入球団の楽天へ移籍。2005年、第2捕手として64試合出場するも同年限りで現役引退。 即指導者に転身し、湘南シーレックスコーチに就任。2009年からは古巣中日のコーチに就任してリーグ連覇に貢献。その後、千葉ロッテマリーンズのコーチ歴任後、2015年からは韓国プロ野球・起亜タイガースの一軍バッテリーコーチに就任。 通算成績は1,955試合、5,705打数1,380安打、137本塁打、604打点、14盗塁、打率.242。花園高卒、178センチ、85キロ。右投右打 |
花園高校時代、強肩捕手で名を馳せるも甲子園出場経験なし
中村武志は、1967年京都府京都市で生を受けます。西京極中から花園高校へ進学し、2年時の夏、甲子園に後一歩まで迫りました。3年生の雀部康生とバッテリーを組み、決勝戦へ進出します。東山高校との決勝戦では、初回に先制するも、1-2で惜しくも敗れました。3年時は、準々決勝まで進むも投手が打ち込まれます。中村は強肩強打でチームを牽引しましたが、甲子園には行けませんでした。
また在日韓国朝鮮人だった中村(本名は姜武志)は、1984年、在日同胞チームの一員として鳳凰大旗大会を戦います。3大会連続で準優勝を収め、強肩で韓国高校球児たちを大いに驚かせました。
ドラフト1位入団も2年間一軍出場ゼロで、整理対象選手となる
1984年ドラフト会議で、中日ドラゴンズから竹田光訓の外れ1位として入団します。中日では、1960年代中盤から、木俣達彦が長らくの間正捕手を務め、1981年からは新人の中尾孝義がレギュラーを奪っていました。しかし、中尾は木俣と異なりフル出場でマスクをかぶっていたわけではありません。故障が多く、1983年以降100試合に満たない出場が続いていました。新人・中村武志も大きく期待されましたが、経験が命とも言える捕手というポジションでしたが、入団後2年間一度も一軍出場機会が与えられません。そしてドラフト1位入団ながら、早くも整理対象に名前があがっていました。
星野仙一監督に中日正捕手に抜擢されると、リーグ優勝に貢献
1987年、中日監督に星野仙一が就任すると、中村武志に大きな転機が訪れます。星野監督は、故障の多い中尾孝義に代わって身体の頑丈な中村に大きな期待をかけました。シーズン終盤には先発マスクを経験させながら、同年は43試合の一軍試合を経験します。そして、翌1988年、星野監督は大胆にも、中尾を外野手にコンバートさせ、高卒4年目の中村を正捕手に据えました。
シーズン当初は、ベテラン大石友好らとの併用でしたが、6月以降は完全にレギュラーとして常時出場します。前年中尾がリーグトップの盗塁阻止率.396をマークしていましたが、それを上回る.448と自慢の強肩を大いに披露しました。チームは落合博満、小野和幸、さらにはルーキー立浪和義ら新戦力が機能し、7月以降7割を超える勝率で一気に首位を捉えます。結局、中村は98試合に出場し、チームを1974年以来のリーグ優勝に導きました
強肩強打に頑丈な肉体で、中日正捕手の座を10年以上守る
中村武志は、完全に中日正捕手の座を掴みます。徐々に打撃も開花させ、1991年には規定打席不足ながら、打率.270、20本塁打、62打点と好成績を残し、時には6番打者も務めました。同年7月の巨人戦では、6回終わって0-8という劣勢の状況から、同点に追いつく代打満塁本塁打、さらに延長11回裏にはサヨナラ本塁打と勝負強さを見せました。
その後も、高い守備率、盗塁阻止率で扇の要として君臨し、1995年からはチームのキャプテンにも就任しました。1999年には、開幕11連勝とスタートダッシュに成功し、前半戦を首位で折り返します。8月には球団史上最速のマジックを点灯させました。過去に首位ターンで一度も優勝していませんでしたが、歴史を覆してリーグ優勝を果たします。同年の中村は打率.200とセ・リーグ31位の低打率でしたが、127試合に出場してチームを支えました。
谷繁元信のFA加入で、自ら志願し、横浜へのトレードが確定
1998年から4年連続125試合以上に出場し、2001年にはキャリアハイの134試合に出場します。しかし、チームはBクラス5位と低迷し、星野仙一監督が退任しました。バトンを受けとったのは、山田久志監督でしたが、チームの若返り策を強力に推し進めます。同年のドラフト会議では、前田章宏、田上秀則と高校、大学の捕手を1位、2位で指名しました。さらに極めつけは、横浜からFA宣言した谷繁元信の獲得に乗り出します。当時メジャーリーグを最優先にしており、谷繁の去就が決まるまで、中村武志との交渉がなかなか行われないという状況に陥りました。
そしてメジャー断念すると、中日の交渉が始まり、移籍が確定します。その後、中村とも交渉の場がもたれましたが、正捕手の座を奪われることは確実で、移籍を志願しました。こうして、横浜への金銭トレードが決まります。結果的には、正捕手同士の交換という前代未聞の結末となりました。
晩年は横浜、楽天と2球団を渡り歩き、現役生活21年で引退
中日で10年以上も正捕手を務め、規定打席到達も7回と経験十分の中村武志は、横浜移籍初年度から正捕手の座を務めます。しかし、盗塁阻止率は2割台に落ち、相川亮二との併用起用となりました。2003年からは、新たに中嶋聡も加入し、79試合と出場機会を減らします。それでも打率.268、11本塁打と打撃力で何とか正捕手を死守しました。2004年は、相川がアテネ五輪日本代表に選出されるほど成長し、47試合の出場に終わります。故障も続き、鶴岡一成ら若手の台頭もあって、同年11月に新規参入球団の楽天へのトレードが決まりました。
楽天初年度の正捕手は、藤井彰人が務めましたが、ベテラン中村も64試合出場と意地を見せます。しかし、新球団の船出は予想通り厳しく、パ・リーグダントツの最下位に終わりました。そして、同年オフ、ついに戦力外通告を受けて引退を決意します。通算2000試合にあとわずかというところで、ミットを置きました。現役時代、規定出場して盗塁阻止率5割以上を記録した捕手は、中村含めてわずか11名です。しかもその偉業を2度以上記録したのは、中村、大矢明彦、田淵幸一、古田敦也の4人だけでした。
引退後は指導者に転身して、バッテリーコーチとして活躍中
現役引退後は、即指導者として第2の野球人生をスタートさせます。横浜ベイスターズ二軍・湘南シーレックスでのコーチを皮切りに、中日、千葉ロッテとバッテリーコーチを務めました。中日コーチ時代は、谷繁元信とチームメイトとなり中日史上初のリーグ連覇に貢献します。2015年からは、韓国プロ野球・起亜タイガースの一軍バッテリーコーチに就任しています。