名前福良淳一(フクラジュンイチ)
生年月日1960年6月28日
日本
出身宮崎県
プロフィール中学から本格的に野球を始める。延岡工時代は好深遠経験無し。

その後大分鉄道管理局を経て、1984年ドラフト6位で阪急に入団、1986年、打率.309で西武・清原と新人王を争った。1988年には打撃ベストテンの3位となり内野手としてなくてならない存在に。1993年から、連続守備機会無失策836の日本記録樹立。

1994年、リーグ最多犠打、打率.301で2度目のベストナイン。1995年から2年連続でリーグ優勝し、1996年は自身初の日本一を経験。1997年、チームの若返り方針により出場機会を失い、同年現役引退。

引退後は、二軍打撃兼内野守備走塁コーチ就任。2005年からは日本ハムの指導者として9年間を過ごし、2度のリーグ優勝に貢献。2013年からオリックス一軍ヘッドコーチ就任。2015年シーズン途中に監督代行に昇格し、2016ん縁からは正式に一軍監督就任。

通算成績は1,240試合、3,999打数1,116安打、50本塁打、372打点、106盗塁、打率.279。ベストナイン1回。延岡工卒、右投右打、180cm、76kg

社会人で6年間地道な努力を続け、24歳という遅咲きでプロ入り

福良淳一は、宮崎県に生まれ、中学生の頃から野球を始めます。延岡工業高校でも野球を続けて、甲子園を目指しました。しかし、それまで延岡工は一度も甲子園経験はなく、自身が在籍中も夏の県予選では、2年連続ベスト8で敗退します。3年最後の夏は、準々決勝にも進出できず、3年間甲子園には縁がありませんでした。

卒業後は、大分鉄道管理局に就職して、社会人野球に進みます。当初無名の選手でしたが、地道にプレーを重ね、1982年には日本選手権にも出場しました。そして社会人6年目の1984年、新日鐵大分の補強選手として都市対抗野球大会に初出場します。3試合で、1本塁打を含む打率.357と中心打者として働き、チームの準々決勝進出に大きく貢献しました。その活躍が評価され、スカウトの目に留まります。そして1984年ドラフト会議では、阪急ブレーブスからギリギリの6位指名を受けました。

2年目で、阪急の穴だった二塁手レギュラーを奪い新人王を争う

社会人6年を経てのプロ入りだけに、福良淳一は即戦力として期待され、ルーキーイヤーの4月から一軍試合に出場します。主に二塁手としての出場でしたが、首脳陣の期待には応えられず、25試合の出場に終わりました。そしてオフのキャンプでは徹底的に守備を鍛えられます。というのも、当時阪急は二塁手が大きな穴となっていました。

長らく中軸を務めたマルカーノが移籍後は、二塁手レギュラーが固定できないシーズンが続き、岩本好広や福原峰夫らと三つ巴の争いとなります。厳しい練習に耐えたプロ2年目の福良は、開幕スタメンこそ逃しましたが、徐々にレギュラーを奪いました。岩本が打撃の調子を落とす中、自身はコツコツと安打を積み重ねます。するとリーグ7位の打率.309を記録し、終わってみれば122試合に出場しました。12本塁打、44打点とパンチ力も披露し、新人王争いで清原和博の対抗馬となります。3割、30本塁打の清原には叶わず、新人王は逃しましたが、二塁手のレギュラーはしっかりと掴みました。

ベストナイン受賞、高い守備率などなど攻守に存在感を示す

1987年には、チームで唯一フル出場するほど、レギュラーの座を磐石にし、打撃でも1番もしくは2番に固定されます。1988年は7月にサヨナラ本塁打を放つなど月間MVPを獲得し、リーグ3位の打率.320で初のベストナインに選出されました。1989年、オリックスとしてリスタートを切るタイミングで、背番号が51から1に変更されます。そして、51番は、その後八木政義を経て、イチローへ引き継がれました。

1990年、死球骨折で53試合出場に留まりましたが、翌年から再び不動の二塁手レギュラーとして君臨します。1992年には、守備率.992という安定感のある守備でチームを支えました。1993年からは1年半にわたって、連続守備機会無失策836の日本記録も樹立します。攻撃でもリーグ最多の33犠打などチームになくてはならない存在でした。

イチローと1,2番コンビを形成し、オリックス悲願の日本一を達成

1994年には、3年目で大ブレイクしたイチローと1,2番コンビを形成します。イチローは、出塁率が高かったため、福良淳一は2年連続リーグ最多の33犠打、さらにはキャリアハイの50打点もマークしました。打率もリーグ6位の.301と自身3度目の3割を達成し、2度目のベストナインに選出されます。イチローのシーズン200安打もあって、オリックスは2位と躍進し、優勝を目指せる戦力が整いました。

1995年もイチローとの1,2番コンビで、ペナントレースを順調に戦います。しかし、6月に右膝十字靱帯を断裂し、長期離脱を余儀なくされました。チームは、同月に首位を捉えると、そのまま独走し、オリックスとして初のリーグ優勝を成し遂げます。福良はFA権を取得していましたが、日本シリーズで敗れたことから宣言して残留を決めました。1996年は、シーズン終盤に日本ハムを逆転し、2年連続リーグ優勝を達成します。怪我と年齢から、若手の大島公一との併用となりましたが、しっかり貢献しました。さらに巨人の日本シリーズも制して、自身初の日本一を経験します。1997年は、チームが若返りを目指し出場機会を失い、同年限りでの現役引退を決意しました。

オリックス、日本ハムでコーチを務め指導者として経験を積む

阪急、オリックス一筋でプレーした福良淳一は、そのまま球団に残り二軍打撃兼内野守備走塁コーチに就任します。自身がプレーした時期には、辻発彦の存在で一度もゴールデングラブ賞は受賞できませんでしたが、その守備力は高く指導者としても効果的でした。

その後、2005年からは北海道日本ハムファイターズのコーチに就任し、2007年には二軍監督を務めます。次々と若手が成長し、一軍へ送り込まれた背景には、福良の指導力がありました。その後も長らく指導者として務め、2009年、2012年のリーグ優勝にも貢献しました。

オリックス一軍ヘッドコーチから監督代行を経て、一軍監督に就任

2013年からは、再び古巣に戻り一軍ヘッドコーチに就任します。2014年には、福岡ソフトバンクホークスとの一騎打ちで最終戦まで優勝を争いましたが、2位に終わりました。2015年、大型補強を敢行し、派遣奪還を狙いましたが怪我人が続出しリーグ下位をさまよいます。6月上旬、森脇浩司監督が休養に入り、ヘッドコーチだった福良淳一が監督代行を務めました。

すると以後42勝46敗ともり返し、何とか5位でシーズンを終えます。するとその手腕が評価されて、2016年からは正式に一軍監督に就任しました。しかし開幕から投打が全くかみ合わず、一度も好調な時期がないままシーズンを終えます。同一シーズンで、オープン戦、交流戦、公式戦、二軍、すべては最下位と言う史上初の出来事となりましたが、2017年シーズンも継続して指揮を執っています。


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