名前 | 永川勝浩(ナガカワカツヒロ) |
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生年月日 | 1980年12月4日 |
国 | 日本 |
出身 | 広島県三次市 |
プロフィール | 小学校3年で野球を始める。中学時代はバスケットボール部に所属したが、新庄高に入り野球に転身。甲子園出場経験無し。卒業後、亜細亜大に進学。150キロ台の速球を投げ、注目を集める。
2002年、広島東洋カープ初の自由獲得枠選手として入団。ルーキーイヤーに、守護神として君臨し、3勝25セーブをマーク。2年目のジンクスに苦しむも、2005年セットアッパー、2006年は故障のベイルに代わってクローザーに復帰すると、リーグ2位の27セーブをマーク。2007年からは3年連続30セーブをマークして、球団セーブ記録を塗り替える。 2010年からは怪我、不調で不本意なシーズンを過ごす。2013年から再びセットアッパーとして復活。2016年、通算500試合登板を達成し、自身初の優勝を味わう。 通算成績(2016年まで)は504試合、36勝42敗165S、74ホールド、防御率3.42、563回、592奪三振。新庄高卒、亜細亜大学、187センチ、81キロ。右投右打 |
亜細亜大学時代に頭角を現し、広島初の自由獲得枠入団選手となる
永川勝浩は広島県三次市に生まれると、小学3年生から野球を始めます。中学生になると、長身を生かしてバスケットボールに転向し、3年間野球から離れました。新庄高校に進学すると、野球を再開します。ブランクをはねのけ、2年夏にはエースに就任しましたが、甲子園出場は実現できませんでした。
亜細亜大学へ進学すると、当初は故障に苦しみます。しかし、3年秋に初登板すると、150キロを超えるストレートと切れ味鋭いフォークボールで、実力の東都と言われるリーグで頭角を現しました。4年時には、エース木佐貫洋の快投で大学選手権優勝を経験します。そしてドラフトが近づいた秋には、球速も152キロまであがり注目選手となりました。当時は自由獲得枠が存在し、木佐貫は巨人への入団が決まります。そして永川も、争奪戦となりましたが、地元広島東洋カープ初の自由獲得枠選手として入団が決まりました。
北別府学の背番号20が与えられ、新人守護神として25セーブ
地元出身の期待の右腕・永川勝浩は、精密機械の異名を取った球団初の200勝投手・北別府学の背番号20が与えられます。引退後8年間もの間、準永久欠番を引き継いだことで、球団の大きな期待が伺えました。そして即戦力の期待通り、開幕一軍に残り、開幕第2戦からプロ初登板機会を与えられます。前年、小山田保裕がクローザーとして30セーブを挙げていましたが、故障で出遅れていたため、永川が取って代わりました。
150キロの速球とフォークを武器に、イニング数を越える三振を奪っていきます。オールスターにも出場し、3勝25セーブで球団新人記録を更新する28セーブポイントを記録しました。同年チームは5位と振るわない中、持病の腰痛と戦いながらも、守護神の役割を果たします。新人王候補にもなりましたが、先発として10勝をマークした木佐貫洋(巨人)に奪われました。
不調に苦しむも、セットアッパーで結果を残してクローザー奪還
2004年もクローザーとして開幕を迎えましたが、2年目のジンクスに苦しみます。安定感のない投球が続き、2度の二軍降格を経験するなど、3勝4敗4セーブ、防御率7.99に終わり、クローザーの座は剥奪されました。復活を目指すプロ3年目、ツーシーム、スライダーなど球種を増やすと制球力が上がります。チームトップの57試合に登板して、3勝5敗2セーブ、14ホールドと、クローザー・ベイルにつなぐセットアッパーとして定着しました。
さらなる進化のため、二段モーションの修正を行って、プロ4年目の2006年を迎えます。前年同様、セットアッパーを務めていましたが、ベイルが故障するとクローザーへ繰り上げ昇格しました。すると、リーグ最多の65試合に登板して、岩瀬仁紀に次ぐ2位の27セーブをマークします。ルーキーイヤー以来の20セーブ突破でしたが、防御率は1.66という大きな進化を遂げていました。
3年連続30セーブ、通算150セーブ達成も、タイトルに届かず
2007年からは、不動の守護神として君臨します。同年には、31セーブで、チームでは大野豊以来となる2年連続25セーブを達成し、球団セーブ記録も更新しました。翌年も、4勝1敗38セーブ、5ホールド、防御率1.77という好成績で自身の持つ球団セーブ記録を更新します。2009年は、6敗を喫するなど打ち込まれるケースもありましたが、3年連続30セーブを達成する36セーブを記録しました。
しかし、この年代は岩瀬仁紀や藤川球児などの全盛期にあたり、さらに当時の広島は連続Bクラスという暗黒時代だったため、永川勝浩が最多セーブに輝くことはありません。それでも史上7人目となる通算150セーブを達成するなど、救援投手として確かに歴史に名を刻みました。
不調に怪我で戦線離脱すると、ポジションもかつての輝きも失う
4年連続30セーブを目指した2010年、オープン戦から不調が続くと、開幕後も調子は戻りません。4月早々に中継ぎ降格となると、度重なる怪我で長期戦線離脱となりました。前年まで、5年連続50試合以上登板と、鉄人のような投げっぷりでしたが、同年はまさかの10試合登板に終わります。翌2011年も、19試合の登板で防御率5.16と跳ね上がり、2012年は、自身初の一軍登板無しに終わりました。
ベテランとして通算500試合登板を達成し、自身初の優勝も味わう
3年連続で不本意な成績に終わり、2013年は進退を賭けて挑みます。オープン戦で結果を残しシーズンスタートさせましたが、開幕後すぐ故障して前半戦を棒に振りました。しかし、後半に復帰すると安定した投球を続け、セットアッパーとして機能します。同年は29試合に登板してチープトップの防御率2.04で、16年ぶりのAクラスに大きく貢献しました。2014年も、防御率は4点台でしたが、52試合に登板して15ホールドに4年ぶりのセーブも記録します。
2015年からは再び登板機会を減らし続けましたが、2016年には通算500試合登板を達成し、自身初めての優勝を味わいます。常時優勝を狙える戦力となったチームでは、競争も激しくなっていますが、生え抜きのベテランとして、15年目のシーズンを迎えています。