名前中嶋聡(ナカジマサトシ)
生年月日1969年3月27日
日本
出身秋田県北秋田郡鷹巣町(現在の北秋田市)
プロフィール1987年ドラフト3位で阪急(現・オリックス)に入団。

1989年正捕手の座を獲得し、ゴールデングラブ賞。オールスターにも2年連続出場。1995年ベストナイン。肩の強さには定評があり、146キロをマークしたこともある。

1997年シーズン終了後、FA宣言し、西武入り。正捕手・伊東勤の壁を破れず、第2捕手となる。2002年オフには、チームの若返り策の一環で、横浜へトレード移籍。しかしレギュラー争いに敗れ同年で構想外となり、日本ハムへ移籍。

2006年には、抑えの捕手としてチームの日本一に貢献。2007年からはバッテリーコーチを兼任。2007年のリーグ連覇、2009年、2012年の優勝に貢献。2015年、実働29年のプロ野球記録に並び現役引退。2016年からは日本ハム統括本部のゼネラルマネジャー特別補佐に就任。

通算成績は1,550試合、3,473」打数804安打、55本塁打、349打点、27盗塁、打率.232。ベストナイン1回、ゴールデングラブ賞1回。鷹巣農林卒、181センチ、84キロ。右投右打

高校2年から捕手を始め、強肩強打を誇るも甲子園出場ならず

中嶋聡は、秋田県北秋田郡鷹巣町(現在の北秋田市)に生まれ、小学生時代にバレーボールを始めます。しかし5年生当時、チームがなくなってしまい、友人に誘われて野球を始めました。すると中学時代に東北大会で優勝、さらには全国大会でも本塁打を放つなど、強打をいかんなく披露します。地元の鷹巣農林高校に進学すると、2年生からは捕手に転向しました。強肩強打の捕手として、3年最後の夏は甲子園出場を期待され、3回戦では自らの本塁打で2-1と勝利を収めます。しかし、準々決勝で横手高校に敗れ、高校野球生活は終わりを告げました。

オリックス正捕手を奪い、ブルーサンダー打線の一角としても活躍

全く無名の高校生でしたが、1986年ドラフト会議で、阪急ブレーブスから3位で指名されます。実は、秋田県大会3回戦の中嶋聡の本塁打を目の当たりにしたスカウトの目に留まっていたのでした。当時阪急の正捕手は、1984年に新人王を受賞した強打の藤田浩雅が務めており、ルーキーイヤーはほとんどをファームで過ごします。しかし、プロ2年目の1988年には、74試合に出場して盗塁阻止率リーグトップを記録するなど、第2捕手の座を掴んでいました。

当時の阪急投手陣は、山田久志、今井雄太郎、佐藤義則といったベテラン勢が多く、大いなる刺激を受けて成長します。そして球団名がオリックスに変わった1989年、藤田の故障もあって正捕手の座を奪うと、121試合に出場してゴールデングラブ賞も受賞しました。1990年からは2年連続で12本塁打も記録し、ブルーサンダー打線の一角を担います。またかつての捕手のイメージを覆す俊足も披露していました。

正捕手として、オリックスのリーグ連覇、ならびに日本一に貢献

その後、巨人から移籍してきた高田誠に2年間、レギュラーを奪われるも、1995年から再び正捕手の座に返り咲きます。そして阪神大震災という逆境を跳ね除け、一気に優勝争いに加わりました。イチローが、首位打者に打点王、2年目の平井正史が15勝27セーブで最優秀救援投手、最高勝率、新人王という活躍を見せると、6月からは首位を譲らずオリックスとして初の優勝を成し遂げます。日本シリーズでは敗れましたが、中嶋聡はベストナインならびに、平井と最優秀バッテリー賞に輝きました。さらに翌年も守備率.996を残すなど正捕手として君臨します。そしてリーグ連覇ならびに、日本一を達成しました。

FAでメジャー挑戦も断念し、正捕手・伊東勤がいた西武へ移籍

入団当時からメジャーに最も近い捕手と呼ばれていた中嶋聡は、1997年オフ、FA宣言してメジャー挑戦を表明します。アナハイム・エンゼルスのテストも受け、入団は秒読みでしたが、契約条件で折り合わず断念しました。その後国内移籍に的を絞ると、西武ライオンズと日本ハムファイターズが獲得に乗り出します。すると、あえて絶対的な正捕手・伊東勤が君臨する西武への移籍を決めました。

しかし、西武黄金時代を牽引してきた伊東の壁はなかなか破れません。30代後半の伊東から正捕手を奪うまでには至らず、1999年に入団した松阪大輔専属の捕手として出場しました。同年は、リーグトップの盗塁阻止率.414を記録するなどさすがの存在感を示します。しかし、打撃に陰りが見え始め、第2捕手としての地位も危うくなっていました。

セ・リーグでは水が合わず、横浜を経て日本ハムでパ・リーグ復帰

西武在籍5年目の2002年オフ、トレードで横浜ベイスターズへの移籍が決まります。同タイミングで横浜の正捕手・谷繁元信は中日へFA移籍していたため、正捕手候補のひとりとして大いに期待されました。しかしパ・リーグで培ったリードは通用せず、正捕手には中嶋聡よりもベテランの中村武志が座り、第2捕手には若手の相川亮二が抜擢されます。結局、わずか19試合の出場に終わり、オフに金銭トレードで日本ハムへの移籍が決まりました。

年齢的にも35歳となり上から数えたほうが断然早いベテランとして、自身4球団目となるユニフォームを着ます。移籍2年目には、チームの捕手として最多出場となる79試合と、貫禄を見せましたが、かつての強肩は鳴りを潜めました。

コーチ兼任して以降も、現役にこだわりNPB最長記録を達成

2006年、日本ハムはヒルマン体制4年目にして、一気にリーグ優勝を実現します。新庄剛志のラストイヤー宣言もあって一丸となり、大型連勝などでリーグを勝ち抜きました。中嶋聡も前年と同じく79試合に出場しましたが、クローザーのマイケルとともに抑えキャッチャーとして試合の最後を締める役割に徹します。同年は44年ぶりの日本一も達成して、自身2度目の美酒を味わいました。

2007年からはバッテリーコーチを兼任しながらも、貴重なベテラン捕手としてチームを支えます。同年は、球団として史上初のリーグ連覇を達成し、その後も2009年、2012年のリーグ優勝時も精神的支柱として貢献しました。自身の出場は2009年以降、極端に減りましたが、2015年まで現役選手を続け、工藤公康、山本昌と並ぶプロ野球記録の実働29年という偉業を達成します。しかし、2015年限りで、長いプロ野球選手生活にピリオドを打ち、バッテリーコーチも退任しました。

昭和時代の入団かつ阪急最後の戦士は引退し、指導者の道を歩む

中嶋聡の引退で、昭和時代に入団した選手、さらに阪急ブレーブスを知る選手も全て居なくなりました。引退後は、日本ハム球団に残り、統括本部のゼネラルマネジャー特別補佐に就任しました。そして2016年からは、提携先のサンディエゴ・パドレスにコーチとしてアメリカの野球を学んでいます。外国人選手のスカウトもしながら、将来の指導者としての経験を積んでいます。


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