名前平野謙(ヒラノケン)
生年月日1955年6月20日
日本
出身愛知県
プロフィール幼少時に父母を失くす。犬山高、名商大を経て1978年ドラフト外で中日に入団。

同年スイッチヒッターに転向。肱痛で投手から外野手になり、1981年近藤監督に強肩・駿足を認められ1軍デビュー、1982年レギュラー入り、1982年には犠打51の日本記録をつくる。1985年は130試合フル出場。1986年にはオールスターにも選ばれ、48盗塁で屋鋪要とともに盗塁王を獲得した。

1988年西武に移籍。1989年外野手としては破格の通算100捕殺を記録した。1990年266犠打の日本記録を、1991年300犠打、1992年350犠打、1996年450犠打を達成。1985・1986・1988年〜1992年ゴールデンクラブ賞。1994年ロッテに移籍。1996年シーズン終了後、引退。

1997年ロッテのコーチ、1999年二軍監督兼任。2001年一軍ヘッドコーチ。現役通算451犠打。2003-2005年住友金属コーチ、2006-2008年北海道日本ハムファイターズコーチ、2011年には韓国プロ野球・起亜タイガースコーチ、2012-2013年中日ドラゴンズコーチを歴任。

2015年からは群馬ダイヤモンドペガサスコーチに就任。2016年からは同監督を務め、独立リーグ日本一を達成。

通算成績は1,683試合、5,676打数1,551安打、53本塁打、479打点、230盗塁、打率.273。盗塁王1回、ベストナイン1回、ゴールデングラブ賞9回。名古屋商科大学卒、右投右打、180cm、76kg

名古屋商科大学時代に大きく頭角を現し、中日にドラフト外入団

平野謙は、愛知県で生まれ、6歳で父を、12歳で母も亡くすなど、苦しい生活を強いられながらも野球を始めます。中学時代は野球部がなくサッカー部に入り、その後は姉が継いでいた平野金物店をたたんで犬山市へ転居しました。犬山高校で野球を復活させると、2年時には投手としてベスト4にチームを導きます。そうした活躍が評価されて、特待生として名古屋商科大学へ進学しました。

大学時代も投手として、また投げない日は外野手としても試合に出場する二刀流で活躍します。エースを務めた1977年は、リーグ戦で8勝をマークしてチームを優勝に導きMVPに輝きました。それでもスカウトの目には留まらず、自身の人脈を駆使して中日スカウトに売り込みます。奇しくも1977年ドラフトでは、中日が指名した3選手が入団拒否したこともあって、ドラフト外での入団にこぎつけました。

解雇手前の状況から、外野手レギュラーを奪いリーグ優勝に貢献

背番号81のドラフト外入団の投手は、当然それほど期待されません。1年目にウエスタンで2勝をあげましたが、投手としての限界を感じ2年目春季キャンプで外野手に転向しました。そして100メートル11秒1という俊足を活かすために、スイッチヒッターにもチャレンジします。それでも入団3年間で、一度も一軍出場することができず、3年目のオフには整理対象として名前が挙がりました。

しかし、1981年から指揮を執ることになった近藤貞雄に高く評価されクビがつながります。同年、開幕戦に代走として一軍初出場すると、控えの外野手として110試合という一軍試合を経験しました。翌1982年、外野手レギュラーだった豊田誠佑の故障で、2番中堅手で開幕スタメンに抜擢されます。すると課題だった打撃でも、リーグ12位の打率.288と合格点の数字を残し、チーム最多の20盗塁を記録するなどチームの優勝に貢献しました。外野守備においても、広い守備範囲と強肩でゴールデングラブ賞を初めて受賞します。しかし最も特筆すべきは、リーグ最多の51犠打で当時の日本新記録を樹立したことでした。

中日不動のレギュラーを経てリーグを代表する外野手へ成長

その後は、中日外野手レギュラーの地位を不動のものとします。1985年には、1番打者として定着し、ともに初となる130試合フル出場、打率3割を達成しました。翌年も、フル出場を達成し、打率は.270と落としたものの48盗塁で盗塁王タイトルを奪います。この間、2年連続でゴールデングラブ賞も受賞しており、リーグを代表する外野手へ成長しました。

しかし1987年、故障で出遅れると、4月に骨折を負いしばらく一軍から離れます。その間に、彦野利勝が台頭し、当時の星野仙一監督が求める闘争心を前面に出すプレーを見せられず絶対的なレギュラーの座を失いました。同年は90試合の出場に終わると、秋にまさかのトレード移籍を宣告されます。ただ西武ライオンズから実力を認められての指名であり、平野謙にとっては大きな転機となる移籍となりました。

西武でもいぶし銀として君臨し、走攻守で黄金時代を支える

当時の西武ライオンズは、森祇晶監督となってさらに強さを増し、1986年から2年連続日本一を達成していました。その2年間、ブコビッチが右翼手を務めましたが、成績不振で解雇されると、その穴を野手最年長だった平野謙が完全に埋めます。いきなりフル出場を達成し、チームトップの打率.303、18盗塁でベストナイン、ゴールデングラブ賞をダブル受賞しました。リーグ最多の41犠打を記録し、3番秋山幸二、4番清原和博へつなぐ2番打者の役割をこなします。同年チームは3年連続日本一を達成しましたが、平野自身は初のシリーズ制覇でした。

この後も、5年連続犠打王、6年連続ゴールデングラブ賞を獲得するなど、西武黄金時代を牽引します。中堅手秋山との右中間守備は、まさに鉄壁でした。1990年には通算265犠打の日本新記録、1991年にも史上4人目の1試合4犠打の異本タイ記録など、いぶし銀の働きを続けます。1989年こそリーグ優勝を逃しましたが、1990年からパ・リーグ連覇と西武黄金時代に不可欠な存在として君臨しました。

最後はロッテに移籍し、通算犠打日本記録達成して41歳で引退

1993年シーズン途中に、38歳を迎えると年齢的な衰えが見え始めます。西武移籍後初めて規定打席到達を逃し、打率も.239と大きく落ち込みました。チームも若手への切り替えを目指したため自由契約となります。まだ現役続行にこだわる平野謙は、ロッテへの移籍が決まりました。

相変わらずバント技術は衰えず、当時日本記録の451犠打まで積み上げます(後に川相昌弘が更新したため歴代2位)。現役通算7回の犠打王を獲得した平野は、まさに犠打という地味な仕事に脚光を浴びさせた功労者でした。その後年齢的なことから常時出場はできず、年々出場機会を減らします。そして、1986年、シーズン途中に骨折したこともあって現役引退しました。

引退後も指導者生活を続け、監督として独立リーグ日本一も達成

ドラフト外で入団し、通算1,551安打、230盗塁、9度のゴールデングラブ賞と走攻守に活躍して、日本一も4度も経験しました。引退後はその経験を糧に指導者生活をスタートさせます。そのままロッテのコーチとなり、後二軍監督にも就任しました。その後も、住友金属鹿島、北海道日本ハムファイターズ、起亜タイガース、中日ドラゴンズなどプロアマ、さらには日本のみならず、多くの球団を渡り歩きます。

2015年からは、独立リーグ・群馬ダイヤモンドペガサスのコーチに就任し、翌年には監督に就任しました。早速手腕を発揮すると、地区チャンピオンシップ、リーグチャンピオンシップに続いて、グランドチャンピオンシップも制し、独立リーグ日本一を達成しています。


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