名前 | 高山久(タカヤマヒサシ) |
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生年月日 | 1981年11月16日 |
国 | 日本 |
出身 | 熊本県 |
プロフィール | 九州学院高では1998年、1999年夏の甲子園に連続出場。1999年は主将で4番打者として活躍。長打力に加え、50メートル5.9秒の俊足と好守の3拍子そろった選手として注目を集める。
2000年ドラフト1位で西武に入団。2001年7月対日ハム戦でプロ初本塁打そして1試合2本塁打を達成。一軍定着できない日々が続くも、11年目の2010年神主打法で突如ブレイク。中盤に故障で離脱するもキャリアはイン116試合に出場して、打率.291、11本塁打、48打点をマーク。しかし翌年、故障で離脱するとレギュラーを奪われる。 2013年5月、阪神タイガースへトレード移籍。阪神での初戦で本塁打を放つも、その後成績が伴わず、戦力外通告。引退後は、古巣西武へ指導者として復帰。2017年、育成アマチュア担当に就任。 通算成績は377試合、909打数227安打、25本塁打、108打点、8盗塁、打率.250。九州学院高卒、179センチ、82キロ。右投右打 |
2年連続甲子園出場も、ともに終盤に逆転されて1点差で敗退
高山久は、熊本県で生まれ、託麻中学時代から野球も上手だがやんちゃな思春期を過ごします。高校進学にあたって、かつて従弟がプレーした熊本工と九州学院のどちらを選択するかで迷いました。そんなある日、坂井宏安が監督を務める九州学院の見学へ訪れます。自身と同じポジションを守る1学年上の吉本亮が、すでにチームの中心的存在となっていましたが、坂井監督は競争心をあおる形で口説き落とし進学が決まりました。
入学後、早速力を発揮すると1年秋から4番の座を奪います。2年夏には、県大会予選決勝で熊本工を16-1の大差で退け、九州学院として11年ぶりとなる甲子園出場を決めました。平塚学園との初戦は、壮絶な乱打戦となります。吉本の史上12人目の2打席連続本塁打などで3点リードして9回を迎えましたが、最終回に5失点して逆転で初戦敗退となりました。2年秋からはチームの主将を務め、2年連続で夏の甲子園に出場します。開幕戦で登場した九州学院は、青森山田と対戦しましたが、前年同様逆転で悔しい1点差負けを喫しました。
西武ドラフト1位指名入団で、背番号1を背負うも頭角を現せず
九州のカブレラと呼ばれた高山久は、高校通算43本塁打の実績が評価されて、1999年ドラフト会議で西武ライオンズから1位指名されます。前年の吉本亮の福岡ダイエーホークス入り続き、2年連続で九州学院からプロ1位指名が誕生しました。秋山幸二、佐々木誠ら名外野手が背負った背番号1が与えられるという、球団の大きな期待をかけられます。高卒ルーキーながら、1年目の4月にプロ初出場し、7月に初安打、9月に初先発出場とわずか4試合でしたが貴重な経験をしました。
2年目には23試合と出場機会を増やし、7月には嬉しいプロ初本塁打を放ちます。同試合では2本塁打を記録するなど大気の片鱗を見せて、打率.261、4本塁打の成績を残しました。2002年は34試合出場しましたが、外野手レギュラーを脅かす活躍はできません。すると2003年の出場は4試合に激減し、2004年は一軍出場なしに終わりました。
外野手レギュラー争いは激しく、左投手用の代打起用に留まる
当時の西武外野手は、和田一浩だけは不動でしたが、そのほかを佐藤友亮、赤田将吾、福地寿樹、栗山巧、G.G.佐藤らで争うという超激戦区でした。並み居るライバルを蹴落として、レギュラーになるためにはバッティングでいい成績を残す必要がありました。2006年には、55試合に出場して、サヨナラヒットで首脳陣へアピールします。同年は5番打者に抜擢された試合もありましたが、定着は出来ませんでした。
その後も大事な時期に怪我で離脱することもあって、なかなか出場機会を増やせません。左投手に対する代打では集中力を発揮し、自身初のサヨナラ本塁打を放ちましたが、2006年の55試合出場がキャリアハイは変わらずで、2009年は3試合しか出場できませんでした。
神主打法への打撃変更が功を奏し、外野手レギュラーを奪う
プロ10年目シーズン途中から、高山久はかつて落合博満の代名詞でもあった神主打法に取り組みました。それまでもフォーム変更を繰り返していましたが、神主打法がフィットします。そして2010年開幕前のオープン戦で結果を残し、自身初の開幕スタメンの座を掴みました。
当初は9番打者スタートしましたが、自身の好調さらにG.G.佐藤の不振もあって、打順が6番に上がります。ついに右翼手のレギュラーとして、毎試合出場する日々が続きました。中盤に故障で一時離脱したため、規定打席到達はクリアできませんでしたが、キャリアハイを大きく後進する116試合に出場します。シーズン111安打も放ち、10年間で放った本数と同じ11本塁打、48打点と長打力を発揮しました。自身初の満塁本塁打も記録し、また得意の左投手相手では打率.390と左キラーとして恐れられます。結局同年は、打率.291という高い数字を残しました。
シーズン途中に阪神へトレードするも、結果を残せず同年引退
遅咲き11年目に獲得したレギュラーを死守したいところでしたが、翌年腰を痛めて手術をしたことで長期離脱を余儀なくされます。2011年はわずか11試合出場に終わり、いとも簡単にレギュラーを手放してしまいました。2012年、復活して開幕スタメンに名を連ねましたが、右翼手のポジションには若い秋山翔吾が座り、自身は35試合出場に終わります。2013年は開幕からファームでプレーしていましたが、5月突然のトレードで阪神タイガースへの移籍が決まりました。
薄い右の長距離打者として期待され、一軍登録と同時に先発で抜擢されます。すると、いきなり本塁打で阪神デビューを飾り、新天地での大活躍を予感させました。しかし、その後は結果が伴わず、阪神での出場試合は9試合に終わります。そして同年、戦力外通告を受けました。その後は、古巣の西武の野球教室「ライオンズアカデミー」コーチに就任し、2017年からは西武育成アマチュア担当を務めています。