名前野間口貴彦(ノマグチタカヒコ)
生年月日1983年5月31日
日本
出身兵庫県尼崎市
プロフィール父の勧めで小1から野球を始める。兵庫尼崎ボーイズ、伊丹シニアで投手に。中学時代には全日本代表として世界選抜大会に出場した。

関西創価高1年夏からベンチ入り。2001年センバツにエースとして出場してベスト4を達成。三振を量産することから、プロ野球元阪神の江夏豊2世といわれる。2002年、創価大学進学も中退して、シダックスへ入社。野村克也監督の下、成長を遂げて2004年自由獲得枠で巨人へ入団。

2005年、プロ初登板初先発を、5回コールドながら初完投勝利を飾る。2007年はシーズン終盤に一気に4勝をあげて、優勝に立役者となる。その後先発として期待されるも成績を残せない日々が続く。

投球フォーム変更にチャレンジするも、2013年右肘痛を発症。トミー・ジョン手術を受け、同年10月に支配化選手登録解除。育成選手として再契約。2015年3月、支配化選手に再登録されるも出場機会はなく、同年戦力外通告。2016年からは球団職員として、独立リーグ専任のスカウトに転身。

通算成績は111試合、13勝12敗1S、9ホールド、防御率4.57、232回1/3、172奪三振。関西創価高卒、創価大学中退、182センチ、76キロ。右投右打

関西創価として初の甲子園出場を決め、本戦でもベスト4進出

野間口貴彦は、兵庫県尼崎市に生まれ、幼少の頃から野球を始めます。中学時代は、伊丹シニアに所属すると、1998年には世界野球選手権に出場しました。その後は、関西創価高校に進学して、チームとして初の甲子園出場を目指します。徐々に力をつけると2年秋の大阪大会優勝、さらに近畿大会準優勝して翌春のセンバツ出場を確かなものとしました。

無事に出場が決まり、2001年春に聖地のマウンドに立ちます。初戦から好投手・高井雄平率いる東北高校戦でしたが、見事8-1で甲子園初勝利をあげました。水戸商業戦では5連続三振を奪うなど6-1で快勝し、準々決勝でも尽誠学園を延長11回の末下します。あれよあれよという間にベスト4に進出しましたが、続く常総学院戦で延長戦に突入し、惜しくも1-2でサヨナラ負けしました。

シダックス野村克也監督の下、成長し自由獲得枠で巨人入団

2001年夏、甲子園連続出場を目指しましたが、3回戦で履正社に敗れます。この時点で、すでにプロスカウトから注目されていましたが、大学進学を表明したため指名は回避されました。そして創価大学へ進学すると、1年春からリーグ戦に登板します。しかし、1年と経たないうちに退学して、シダックスへ入社しました。

ここで、同じタイミングでチームの監督に就任した野村克也との大きな出会いがあります。プロ野球の世界でトップレベルの成績を残した名将に英才教育を受けると、さらに潜在能力が開花して、チームのエースとなりました。2003年には、都市対抗に出場して準優勝を成し遂げます。2004年になると、スカウトの注目を浴びるようになり、一場靖弘、那須野巧らとともにビッグ3と称されました。3球団争奪戦となりましたが、同年の日本選手権準決勝で敗れた後に、巨人入団希望を表明します。当時は自由獲得枠があったため、そのまま巨人入団が決まりました。

初登板初先発を完投勝利で飾るも、即戦力としては働けず

ルーキーイヤーの2005年、イースタンリーグ開幕投手として迎えます。そして、5月には、プロ初登板初先発の機会が与えられました。5回4失点ながら、雨天コールドとなり記録上は初勝利を初完投で飾ります。その後も、先発として起用されて4勝をマークしましたが、防御率は6.61と相当悪い成績でした。2006年も、先発としてスタートしましたが、結果が出ずにリーフに転向となります。26試合に登板して、防御率3.43と中継ぎとしてはまずまずの成績を残しました。

2007年、終盤に負け無しの4勝を挙げて優勝の立役者になる

前年、球団史上初の2年連続Bクラスを味わいましたが、2007年、好スタート切ります。高橋由伸、谷佳知の新1、2番コンビ、FA加入の小笠原道大、さらに新クローザーの上原浩治らが期待通りの働きを見せました。しかし、終盤は阪神、中日と三つ巴の争いとなり、先発投手が息切れしたタイミングで、野間口貴彦が救世主となります。9月、先発にリリーフにフル回転し、優勝を決めた試合でも勝利投手になるなど、わずか17日間で4勝をマークしました。

不振から抜け出せず、サイドスロー転向など試行錯誤を繰り返す

2008年は、先発ローテーションの一角として期待されます。しかしライバル争いに負け、中途半端な起用が続きました。2009年からはオール中継ぎとなりましたが、年々出場試合数を減らし、防御率も悪化させました。2010年オフには、殻を破るきっかけとして斎藤雅樹投手コーチとともにサイドスロー転向にチャレンジします。

修得に時間がかかりましたが、2011年シーズン途中に、さらに改良を加えてスリークォーター気味に変えたところ、フィット感がありました。同年は、12試合の登板に留まりましたが、制球が安定して防御率1.98と復活の兆しを見せます。しかし、チーム内の競争は厳しく、2012年の一軍試合登板は、わずか3試合に終わりました。

右肘故障から育成選手に降格すると、一軍復帰を果たせず引退

2012年の日本一奪還に全く貢献できず、焦る気持ちがさらなる悲劇を生みます。2013年に右肘痛を発症して、マウンドから遠ざかることになりました。その後も痛みは治まらず、トミー・ジョン手術を受けることを決意します。何人もの選手が、術後の長いリハビリを経て復活していますが、プロ通算8年で13勝の野間口には辛い現実が待っていました。同年、支配下選手登録を解除されて、育成契約へと変更となります。背番号も三桁となり、辛く苦しいリハビリをスタートさせました。

手術から1年後、ようやく二軍の実戦でマウンドに帰って来ます。そして2015年は問題なくキャンプを過ごし、開幕直前に支配下登録選手へも復帰しました。あとは、ファームで結果を残して一軍昇格の階段を登りたいところでしたが、4連覇を狙うチームの戦力は厚いものでした。さらに終盤ギリギリまで優勝を争っていたこともあり、若手を試す消化試合も訪れません。結局、一軍昇格することなくシーズンが終わり、1月には戦力外通告を受けました。その後、トライアウトを受けて現役続行を目指すという選択肢もありましたが、引退を決意します。そして2016年からは、巨人球団職員として、独立リーグ専任スカウトという新しいポジションに就いています。


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