名前宮里聖志(ミヤサトキヨシ)
生年月日1977年2月28日
日本
出身沖縄県国頭郡東村
プロフィールレッスンプロの父をもち、3歳からゴルフを始め、高校は大阪桐蔭高にゴルフ留学。近畿大学ゴルフ部では主将を経験。

2000年4位でプロテストに合格。2002年、ミズノオープンで2位に入り全英オープン出場。2003年ルーキー・オブ・ザ・イヤー受賞。2004年12月、地元開催のアジア・ジャパン沖縄オープンでプロ初優勝。翌年の同大会でもトップタイでホールアウトするもプレーオフで敗退。

その後安定した戦いを続け、2006年から8年連続でシード権確保。2013年シード権を失う。2014年、全米オープンゴルフ選手権最終予選で上位6名に入り本戦出場権を確保。しかし全米オープンでは最下位を味わう。ベルビーチに所属。

近畿大学中退、166センチ、84キロ。

宮里3兄妹の長男として生まれ、父の指導でプロを目指す

宮里聖志は、沖縄県国頭郡東村に生まれ、レッスンプロの父・宮里優に3歳からゴルフを教わります。後に3歳下の弟・優作、さらに8歳下の妹・藍と兄妹3人で切磋琢磨してゴルフの腕を磨きました。3兄妹で最もゴルフの感性が高く、器用で飲み込みが早いという評価を受けます。中学までを故郷沖縄で過ごし、大阪桐蔭高校に進学しました。

1993年度には、関西高等学校ゴルフ選手権大会で優勝するなど、実力を見せ付けます。卒業後は、関西でナンバーワンになるために、名門近畿大学へ進学しました。3年には主将を務めるなど順調に思えましたが、親元を離れて遊びがたたり留年が決定します。すると父の逆鱗に触れ、大学を中退して沖縄に連れ戻されました。そこから、2年間という期限付きで、父とのマンツーマンによる厳しい特訓がスタートします。練習をサボったのを見つかると、鉄拳制裁も辞さない指導を受けるなど、成長していきました。

プロツアー参戦2年目に成績を残して、全英オープンにも出場

1999年、2度目でプロテストに合格し、2000年12月の「ファンケル沖縄オープン」でツアーデビューを果たします。2001年度からツアー本格参戦すると、タマノイ酢よみうりオープンで3位に終わるなど、トップ10フィニッシュを2度経験し、賞金ランキング65位で終わりました。

2002年、フジサンケイクラシックで8位に入ると、全英オープン出場もかかるミズノオープンで首位とわずか1打差の2位と大躍進を見せます。続く日本ゴルフツアー選手権イーヤマカップでも4位タイでフィニッシュし、勢いをつけて初の海外メジャー・全英オープンに出場しました。世界トップレベルの大会では残念ながら予選落ちとなりましたが、大きな経験を積みます。11月の日本メジャーの一つ「日本オープンゴルフ選手権」では、7位に入り、アマながら同13位に入った弟・優作に貫禄を見せました。

プロで低迷する間に、妹・藍がプロ5勝でニューヒロインとなる

2002年は、賞金ランキング27位とシード権を獲得しましたが、2003年は予選落ちも多くトップ10入りを一度もできません。同年、「ルーキー・オブ・ザ・イヤー」を獲得しましたが、賞金ランキングは78位と大きく後退しました。

さらに自身の周囲の環境は劇的に変わります。弟・優作は東北福祉大学時代からアマのタイトルをほしいままにし、2002年12月からプロに参戦しました。ルーキーイヤーから、好成績を連発し、その才能を開花させます。さらに、妹・藍にいたっては、東北高校3年時の「ミヤギテレビ杯ダンロップ女子オープンゴルフトーナメント」で優勝して、史上初の高校生プロゴルファーとなりました。その後も快進撃を続け、プロ初優勝を含む5勝をあげて、早くも1億円プレイヤーに上り詰めます。弟と妹に対しての出遅れ感は否めませんでした。

地元沖縄で、家族全員が見守る中、嬉しいプロ初優勝

2004年度も、2年連続賞金ランキング70以内を実現できず、シード権を失います。しかし、2004年12月の地元開催の「アジア・ジャパン沖縄オープン」に主催者推薦で出場すると家族全員の前で、嬉しいプロ初優勝を飾りました。2日目を21位タイで終わり予選を通過しましたが、3日目終わって首位と8打差の18位タイと苦しい状況で最終日を迎えます。沖縄特有の風に苦しむ中、宮里聖志は猛チャージをかけました。中盤の8番から4連続含めて8つのバーディーを決めて、首位に並んでホールアウトします。上位は日本人、外国人含めて大混戦となる中、スコアを崩し全てのプレイヤーがトータル270のスコアを上回れず奇跡の大逆転優勝が確定しました。

宮里3兄妹の長男として大きな存在感を示すと、その後も安定した成績で自身最高位タイの賞金ランキング27位でシーズンを終えます。そして、ちょうど1年後に、前回優勝者として再び「アジア・ジャパン沖縄オープン」に戻ってきました。よほどコースに水が合うのか、2日目終わって首位タイで予選を通過し、最終日でも通算8アンダーで高山忠洋 と並んで首位でホールアウトします。しかし、プレーオフの2ホール目で敗れ、連覇を成し遂げることは出来ませんでした。

2度目の優勝は遠ざかるも、安定の戦いで8年連続シード権確保

その後、サン・クロレラクラシック4位タイ(2005年)、マンシングウェアオープンKSBカップ3位タイ(2006年)、三菱ダイヤモンドカップゴルフ 2位タイ(2007年)、The Championship by Lexus 2位(2008年)、東建ホームメイトカップ 4位タイ(2010年)、TOSHIN GOLF TOURNAMENT IN LakeWood 4位(2011年)など、2度目の優勝こそないものの、惜しい大会が続きます。こうした安定した戦いで、賞金ランキングも、2006年から8年連続でシード権を確保しました。

シード権を失うと、全米オープン最下位に屈するなど不調が続く

2012年には、初優勝を成し遂げた那覇GC開催の日本オープンゴルフ選手権競技7位を皮切りに、3試合連続トップ10の成績を残します。しかし、その後は一転して不調に陥り、2013年度は、賞金ランキング76位でシード権を失いました。

2014年からは、プロ入り後はじめて、チャレンジを主戦場にすることを余儀なくされます。それでも、全米オープンゴルフ選手権最終予選で上位6名に入り、全米オープンの出場権を手にしました。しかし、本戦では難関コースを前にまさかの最下位でホールアウトという悔しい結果を残しました。同年、チャレンジトーナメント「HEIWA・PGM ChallengeⅡ」で優勝を飾りましたが、ランキングは8位に終わります。その後も、不調の時期は長引きシード権復活が待たれます。


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