名前松原良香(マツバラヨシカ)
生年月日1974年8月19日
日本
出身静岡県浜松市
プロフィール兄の影響もあって小学校3年からサッカーを始める。

浜松市立開成中2年生の時、県選抜に選ばれる。その後、日本ジュニアユースにも選ばれる。東海大一高では2年生のときインタハイ準優勝。卒業後阪南大に進学するが、単身ウルグアイのペニャロールに留学。

帰国後、ジュビロ磐田に入団。のち清水エスパルス、ジェフ市原に移籍。1996年アトランタ五輪代表。1998年ジュビロ磐田に復帰。のちクロアチアのFCリエカ、1999年10月スイスのSRデレモン、2000年湘南ベルマーレを経て、2001年アビスパ福岡に移籍。

2002年、ウルグアイへ渡るも契約に至らず。2003年、沖縄かりゆしFCでプレー。2004年途中にFC静岡へ移籍し、2005年には監督も務めるも同年引退。

その後指導者としてのライセンス取得。2015年にはわずか3試合ながらSC相模原監督を歴任。東海大一高卒。179センチ、73キロ。

Jリーグ元年に、ウルグアイでプロ生活をスタートさせる

松原良香は、サッカー王国静岡に生まれ、3歳年上の兄の影響で幼い頃からサッカーを始めます。中学時代には早くも才能を開花させて、県選抜、日本ジュニアユースなどに選出されました。東海大一校(現在の東海大静岡翔洋高)に進学すると、U-17日本代表にも選出されます。2年時の高校総体では、清水東と史上初となる静岡県同士の決勝を戦いました(準優勝)。

当時はまだJリーグ発足前で、プロになりたいという気持ちは現れていません。しかし、三浦和良がJリーグ開幕を見据えて凱旋帰国し、ブラジル仕込みの華麗なプレーに魅せられると一転してプロへの意識に支配されました。松原は阪南大学へ進学していましたが、わずか3日で辞めて、ヤマハ(現:ジュビロ磐田)や本田(現:本田技研工業フットボールクラブ)、などクラブチームへ自らを売り込みします。しかし、どれも実現しないでいる時に、日本サッカー協会の西野朗、山本昌邦から驚きの提案を受けました。

西野は、1996年のアトランタ五輪へ向けて、世界と戦えるU-23のチームつくりを目指していました。しかし、当時、若い世代で世界を相手に戦っていた人材は一人としていません。そこで、松原に対しいきなり海外挑戦を強く推奨したのでした。しかも周りに日本人がいない環境を敢えて選択してウルグアイに決まります。そして、1993年、日本がJリーグを開幕させて未曾有のサッカー人気となったとき、ウルグアイ名門CAペニャロールでプロ人生をスタートさせました。

アトランタ五輪では、日本代表としてマイアミの奇跡を起こす

1994年、松原良香は、1年後れでJリーグに加盟したジュビロ磐田と契約し、Jリーガーとなります。自分では、レギュラーをとる気満々でしたが、全盛期の中山雅史、元イタリア代表スキラッチら、FWは激戦区でした。1年目に18試合で7ゴールと存在感を見せたものの、2年目には15試合と出場試合数を減らします。それでもU-23日本代表には選出されて、西野朗監督率いるチームで主力となりました。

アトランタ五輪最終予選前に、エースストライカー小倉隆史が大怪我で離脱したため、松原には大きな期待がかかります。しかし、最終予選初戦のイラク戦でゴールを外すと、そこから不調に陥り、そこから出番も少なくなって無得点に終わりました。それでもチームは見事に五輪出場を決め、不安視された最終メンバー入りも果たします。そして、本戦では初戦から王者ブラジルと対戦することが決まりました。

西野監督はブラジルを徹底的に研究します。試合は、城彰二と中田英寿の2トップで始まり、GK川口能活の奇跡的なセーブが連発して0-0で折り返しました。そして後半27分に隙を突いて得点を奪うと、後半41分、城に代わって松原はピッチに立ちます。FWながら守備に貢献して、後にマイアミの奇跡と言われた勝利に貢献しました。ナイジェリア戦は出番なく0-2で敗れ、ハンガリー戦には先発出場します。日本は勝利したものの、得失点差で3位となり、グループリーグで2勝を挙げながら予選敗退となりました。

再び海外プレーにこだわるも、代理人とのすれ違いが生まれる

1997年は、ジュビロ所属のままでジェフユナイテッド市原に期限付き移籍します。リーグ戦、カップ戦など含めて34試合に出場して11ゴールとFWとしての仕事をこなしました。1998年はジュビロに復帰しましたが、1試合も出場することができず、再び海外プレーを決断します。代理人から紹介してもらったクロアチアのリエカに決まりましたが、ビザや移籍証明書発行手続きが遅れ、2ヶ月程度しか出場できませんでした。それでも、チームの2位に貢献し、一時は契約延長を勝ち取ります。しかし、以降、代理人とのコミュニケーションギャップが生まれました。

代理人は松原をさらに他のチームへ移籍させようとし、テストのためスイスに呼ばれます。その練習相手はまさかの強豪バイエルン・ミュンヘン(ドイツ)であり、圧倒されて力を発揮できませんでした。結局、契約は遅れ、ドレモンと契約できましたがここでもわずか2ヶ月間のプレーで終わります。その後、日本に帰国すると、同じように代理人で悩む前園真聖と再会したことがきっかけとなり、2000年は湘南ベルマーレでプレーしました。

現役最後は、日本のクラブでプレーし、指導者として監督も経験

湘南では40試合に出場して13ゴールをあげるなど、年間MVPに選ばれます。するとシーズン後にはアルゼンチンに渡り、アルヘンティーノス・ジュニアーズのテストを受けました。クラブ側からは必要な人材として評価されましたが、条件が悪く契約に至りません。悩んだ末に、諦めてJ1アビスパ福岡に途中加入します。しかしチームは低迷してJ2降格となり、松原は解雇されました。

そこで初めて海外プレーを経験したウルグアイへ渡ります。代理人から、デフェンソールへの移籍話をもらいましたが、行ってみると外国人枠が埋まっていました。再び日本に帰国すると、湘南時代の監督だった加藤久が、沖縄かりゆしFC監督に就任しており、2003年からチームに加入します。かなりのブランクに当初は苦しみましたが、2003年の九州リーグ優勝に貢献しました。地域リーグ決勝大会で静岡FCに敗れましたが、松原は現役最後をその静岡FCで過ごします。2005年は、チームの監督として東海リーグで2年ぶり3回目の優勝を実現しました。

引退後は、指導者、実業家、学生という立場でサッカーを支援

国内外12チームを渡り歩いた松原良香は、引退後に解説者なども務めつつ、指導者に必要なライセンスを取得します。2015年には、J3リーグ残り3試合という段階で、SC相模原監督を務めました。また、その他にもJリーグ選手OB会の副会長、FELICE MONDOの代表としての顔、さらには筑波大学大学院の社会人コースで勉強する立場でもあります。

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