名前 | 小林伸二(コバヤシシンジ) |
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生年月日 | 1960年8月24日 |
国 | 日本 |
出身 | 長崎県雲仙市 |
プロフィール | 島原商時代、インターハイ優勝。大阪商業大を経て、1983年〜1990年日本リーグのマツダで活躍。
その後、サンフレッチェ広島のコーチ、ユース監督、スカウトを歴任し、2000年アビスパ福岡のサテライト監督に就任。 2001年大分トリニータのサテライト監督。同年5月石崎信弘監督の解任に伴い、トップチーム監督代行に。6月監督就任。同年も昇格争いできるまでチームを建て直し、翌年J2初優勝してJ1昇格。2003年はJ1で守備力で存在感を見せてJ1残留を実現するも監督解任。 2004年2ndステージからセレッソ大阪監督に就任。1stステージ最下位と低迷していたチームを、翌年優勝争いするまでに復活させる(6位)。 2008年モンテディオ山形(J2)の監督に就任。1年目にJ2で2位を確保し、チーム初のJ1昇格を実現。J1残留も2年連続で達成。 2012年、徳島ヴォルティス監督に就任。2年目に4以下からプレーオフに進出し、見事J1昇格。 2016年、清水エスパルス監督として、J2で2位を実現し、1年で自身4度目となるJ1昇格を実現。島原商業高卒、大阪商業大学卒 |
インターハイ優勝し、マツダ時代も主力FWとして天皇杯制覇
小林伸二は、長崎県南高来郡国見町(現雲仙市)に生まれます。地元の県立島原商業高校へ進学すると、同校OBの小嶺忠敏が監督を務めるサッカー部に入部しました。かつて、九州の学校のサッカーレベルは全国レベルではありませんでしたが、小峰監督就任後に島原商業は実力をつけていきます。1977年、小林らが主力だったチームはインターハイで優勝を成し遂げました。
その後、小峰監督と同じ大阪商業大学を経て、1983年にマツダSC東洋工業サッカー部(サンフレッチェ広島の前身)へ入団します。当時チームはJSL2部降格となり、その建て直しのため、後の日本代表監督ハンス・オフトらを招聘しました。シンキング・フットボールをチームに広め、1987年には天皇杯優勝も実現します。1988年には、再びJSL2部降格するなど安定しないチームにおいてFWとして活躍しました。
広島ユース初代監督を経て、2チームのサテライト監督を歴任
1990年に現役引退すると、クラブに残り指導者に転身します。後にサンフレッチェ、さらには日本代表主力にも成長した高木琢也を育成しました。1993年からは、創設されたサンフレッチェユース初代監督に着任します。就任3年目の1995年には、Jユースカップ優勝とチーム初タイトルをもたらしました。
その後チームのスカウトを経て、1998年に日本サッカー協会公認S級コーチライセンスを取得すると、2000年からアビスパ福岡のサテライト監督を任されます。翌年からは大分トリニータに移り、同じくサテライトチームの監督に就任しました。
大分トリニータでJリーグ初監督に就任し、初のJ1昇格を実現
大分トリニータは、1998年のJFLラストシーズンを6位で終えて、翌年創設されたJ2に参戦します。そして、石崎信弘が監督に就任し2年連続で3位、しかも2位との勝ち点がわずか1差という僅差でJ1昇格を逃していました。3年目こそは念願のJ1昇格を目指してシーズンがスタートしますが、序盤から不調が続きます。するとチームは6月に石崎監督を解任し、小林伸二が急遽サテライトから昇格して監督に着任しました。
小林はまずは守備をしっかりと固め、攻撃はカウンターからの速攻というスタイルを重視します。同年、持ち直して最終節まで昇格争いに加わりましたが6位に終わりました。しかし、翌2002年、同じスタイルを継続し28勝6敗10分で悲願のJ2優勝を実現します。得点は4位でしたが、34失点は2位以下を突き放す成績で見事J1昇格を果たしました。初のJ1でも、自慢の守備力は十分通用します。しかし得点力として期待した外国人が全く振るいませんでした。結局、1stステージ14位、2ndステージ16位の総合14位でかろうじてJ1を死守します。特に2ndステージはリーグ最小の16失点でしたが、得点はワーストの7得点に終わり、小林は同年で監督を退任しました。
J2降格危機のセレッソ大阪を、優勝争いの主役に復活させる
2004年7月、同年の1stステージで最下位に沈んだセレッソ大阪の監督に就任します。厳しい状態からのスタートでしたが、何とかチームを立て直してチームをJ1残留させました。すると翌年は、開幕3連敗のスタートながら、途中16戦連続負けなしの快進撃を続け、最終節を前にして首位に立ちます。最終節、勝てば自力優勝でしたが、アディショナルタイムに追いつかれると、得失点差で6位まで最終順位を落としました。それでも一時はJ2降格の危機に瀕していたチームを優勝目前まで引き上げた手腕は評価され、2006年も監督続行となります。しかし、8試合を終えて1勝1分6敗とスタートダッシュに失敗し、監督解任となりました。
モンテディオ山形、徳島ヴォルティスでもJ1昇格させる手腕を発揮
その後、V・ファーレン長崎の強化部長を経て、2007年からは再びアビスパ福岡のチーム統括グループ長に就任します。チームのJ1昇格へ向けてまい進しましたが、その可能性が消えると責任を取らされる形でチームを去りました。
不本意な形でチームを終われましたが、チーム再建に定評がある小林伸二は、その後もJ2チームのJ1昇格で力を発揮します。2008年にモンテディオ山形の監督に就任すると、いきなりチームの期待を上回るJ2での2位を実現して、初のJ1昇格を実現しました。J1では毎年J2降格最有力といわれながらも15位、13位とJ1残留を成し遂げます。しかし2011年は戦力差を埋められず、18位でJ2降格となりました。
2012年から徳島ヴォルティス監督に抜擢され、1年目15位に終わるも、2年目には4位を確保してJ1昇格プレーオフに進出しました。さらにここでも勝ち抜き、自身3度目のJ1昇格を実現します。翌年も指揮を執り、1年でのJ2降格となりましたが、さらに2015年も続投を任されました。
清水エスパルスでもJ1昇格を実現し、昇格請負人の面目躍如
2016年からは、クラブ史上初めてJ2に降格した清水エスパルスの監督に就任し、昇格請負人の名を磐石にします。当初は、J1と異なる多い試合数や続出した故障者のためプレーオフ圏外の7位以下となりました。しかし、エース大前元紀が長期離脱から復帰すると怒涛の8連勝で、2位に浮上します。最終節も勝利して9連勝で締め、目標としていた1年でのJ1復帰を実現しました。小林伸二は、Jリーグ史上最多の4度目の昇格を達成し、2017年も指揮を執っています。