名前 | 金田喜稔(カネダノブトシ) |
---|---|
生年月日 | 1958年2月16日 |
国 | 日本 |
出身 | 広島県安芸郡府中町 |
プロフィール | 府中中学でサッカーを始め、3年の時に県大会で優勝。広島県工3年の時、全国高校選手権準決勝に進出。
大学2年で日本代表に選ばれて、代表史上最年少ゴールを記録。卒業後、日産自動車サッカー部の中枢として活躍。JSLカップ、天皇杯、日本リーグの3冠2年連続達成に貢献。 1992年退部し、勤務の傍ら、テレビの解説者を務め、1993年退社して解説に専念。日本サッカー協会強化委員も務めた。共著に「Jリーグ興奮本—トップライター10人が描いた!」がある。 日本リーグ通算157試合出場21得点、国際Aマッチ58試合出場6得点、中央大学卒。 |
1年後輩の木村和司らと、高校サッカー選手権大会ベスト4
金田喜稔は、広島県安芸郡府中町で生まれると、自身が10歳の頃始まったサッカー情報番組「三菱ダイヤモンド・サッカー」を毎週欠かせず見るようになります。そして海外のスーパースター選手たちに憧れて、自分でも真似てプレーするようになりました。府中町には東洋工業(マツダ)があったため、当時の選手たちと触れ合う機会も生まれます。そして広島工業高校時代の1975年には、全国高等学校サッカー選手権大会に優勝候補として出場しました。同級生の石崎信弘、1学年下の木村和司らと超攻撃的サッカーを展開し、戦後3度しかない10-0という圧勝スタートします。準決勝で敗れてベスト4止まりでしたが、金田は攻撃の起点として大活躍しました。
代表デビュー戦で決めたゴールは、現在も史上最年少記録
中央大学へ進学すると、2年時に日本代表に選出されます。そして、代表デビューした1977年6月15日の日韓定期戦で、代表初ゴールを奪いました。同試合は、日本が誇るエース釜本邦茂の代表ラストマッチであり、0-2とリードされた状況で生まれます。釜本がセンターサークル付近から金田にロングパスを出すと、得意のドリブルで仕掛けるかと思いきや、左足で強烈なドライブシュートを決めました。衝撃的なゴールは、アウェイのソウル運動場を静寂で包み込み、日本の世代交代を印象付けます。この19歳119日で記録したゴールは、日本代表史上最年少ゴールとして刻まれました(2017年7月現在も歴代1位)。
日産自動車チームの攻撃サッカーを演出し、黄金時代を牽引
その後、多くのトップチームに声をかけられ、1980年、日産自動車(横浜F・マリノスの母体)に入団します。加茂周監督が率いていた当時のチームは、JSL1部で2年連続最下位となり、2部降格となるなど決して強豪チームではありませんでした。しかし、翌年に後輩・木村和司も日産に入団して二人で攻撃の中盤を形成すると、JSL2部で2位を確保して、1部返り咲きを果たします。さらに、その後水沼貴史、柱谷幸一、松永成立、長谷川健太、井原正巳ら有力選手が次々と入団して、日産黄金時代を築いていきました。
1983年には、日本サッカーリーグ2位、JSLカップ準優勝といずれも優勝まであと一歩まで迫ります。しかし、同年度の天皇杯では、金田&木村のコンビが冴えに冴え、クラブ初タイトルを獲得しました。翌年も日本リーグで2位と念願のリーグ優勝を逃しましたが、1985年も天皇杯を制覇します。この頃、スペシャル・ライセンス・プレーヤーがスタートし、日本でもサッカーのプロ化が始まりました。
同僚の木村が第1号で名乗りを上げ、チームメイトも次々とプロに転向していきます。しかし、異端の天才と呼ばれた金田は、頑なに拒み会社員でいることを選択しました。この間、怪我などで一時精彩を欠きましたが、1988年シーズンからチームは黄金時代を迎えます。念願のJSL1部を初制覇すると、JSLカップ、天皇杯も制して3冠を達成しました。同じ攻撃的サッカーを掲げる読売サッカークラブとの対戦は、黄金カードとして人気を博します。それでも、絶好調の日産は1989-1990年シーズンも2年連続で3冠を達成しました。
個人技に優れ、日本サッカー史上最高のテクニシャンと称される
金田喜稔と木村和司の日産コンビは、日本代表でも中盤のキープレイヤーとして君臨します。当時の日本代表サッカーは、個人技で劣る部分を足でカバーするというコンセプトでしたが、金田はそれを覆すかのように抜群のテクニックを持っていました。変幻自在のドリブルは、スピードと緩急を自在に使い分けて、外国人選手も抜き去ります。また独特のまたぎフェイントは、「キンタダンス」とも呼ばれ、当時のサッカー少年たちがこぞって真似るほどでした。
異端の天才として、Jリーグ開幕前に引退しサッカー解説者へ転身
抜群のテクニックを持つ金田喜稔でしたが、異端の天才と言われたように独特な感性を持っていました。1984年のロサンゼルス五輪は、組み合わせにも恵まれて本戦出場が期待されていました。しかし、初戦に格下とされたタイに敗れると、そのまま全敗します。攻撃の起点を担っていた金田は、責任を感じ、26歳にして日本代表を突如引退しました。
その後慰留にも応じず、代表から遠ざかると、Jリーグ誕生を2年後に控えた1991年、現役選手からも引退します。自身は、前述のようにプロになっていなかったため、日産自動車の社員として2年半サラリーマン生活を送りました。そして1993年にJリーグが開幕すると、日産に勤務しながら日本初のプロサッカー解説者となります。2017年現在も続いているTBS系列のサッカー番組「スーパーサッカー」には開始からコメンテーターとして関わりました。
引退後は、自身も独立してサッカーコメンテーターとして活躍
Jリーグ開幕後、サッカーは空前の大ブームとなり、金田喜稔もサッカー関係の仕事が多くなります。サッカープロをけってでも、日産自動車勤務を選択しましたが、自ら有限会社フチューマを設立して独立を果たしました。こうしてサッカー解説者として忙しい日々を送りながらも、日本サッカー協会の強化委員会(現・技術委員会)委員としても代表監督を選定するという役割を与えられます。その後も、コメンテーターや約10年間放送された「アルゼンチンサッカー中継」でも解説を務めました。2010年には、日本サッカー名蹴会の設立発起人、及び会長に就任しています。