名前 | 小島伸幸(コジマノブユキ) |
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生年月日 | 1966年1月17日 |
国 | 日本 |
出身 | 群馬県 |
プロフィール | 小学生からサッカーを始め、新島学園時代にGKに転向。
同志社大学時代には、1984年ユース代表、1988年ユニバーシアード代表に選ばれる。のちフジタへ加入。正GK古島清人の控えを抜け出せず、チームのJリーグ昇格に貢献できず。 Jリーグ加入したベルマーレ平塚では、正GKのポジションを奪う。1994年ニコスシリーズ2位、同年度天皇杯優勝に貢献。1998年W杯フランス大会にも第3GKとして日本代表選出。 1999年2月アビスパ福岡へ移籍。2002年からは、ザスパ草津へ移籍。当時、群馬県1部だったチームを、関東1部、JFLを経てJ2昇格の立役者となる。 2005年11月、J2最年長出場を更新。同年限りで現役引退。引退後は指導者や解説者として活躍。2008年にはJFAアンバサダー就任。国際Aマッチ4試合出場0得点、同志社大学卒。187センチ、85キロ |
高校時代にGKに転向し、フジタに加入するも控えGKに甘んじる
小島伸幸は、1966年、小島製作所という町工場の長男として生まれます。小学生時代は、野球、サッカー、水泳を掛け持ちし、5年生からサッカーに専念しました。中高一貫の新島学園に進学し、高校時代からGKに転向します。GKコーチもおらず、我流でしたが長身を活かしてレギュラーを獲得しました。スポーツセレクションで同志社大学に進学すると、さらに頭角を現し、1987年のザグレブ・ユニバーシアード大会代表に選出されます。そして、日本サッカーリーグのフジタへ加入しました。
ルーキーから試合に起用されましたが、2年目からは自身よりも3学年下の古島清人が台頭します。1991-1992年のJSL2部時代は、1試合も出場できずチームの優勝に貢献できませんでした。1992年から旧JFL1部での戦いとなるも状況は変わらずで、控えのGKの地位を抜け出せません。1993年には、岩本輝雄、名良橋晃ら後の日本代表に選出される若手の活躍で優勝してJリーグ昇格を決めましたが、自身は3季連続公式戦出場無しに終わりました。
ベルマーレ平塚で正GKを奪うと、Jリーグで旋風を巻き起こす
1994年から、ベルマーレ平塚としてJリーグ参戦が決まります。初めて正式なGKコーチからの指導を受け、さらに正GK古島清人の不調もあって、小島伸幸に出番が回ってきました。すると187センチの高身長に、堅実なプレーで一気にレギュラーを奪います。しかし前半のサントリーシリーズでは、守備陣が崩壊しワーストの54失点を喫し、12チーム中に11位と低迷しました。後半のニコスシリーズでは、しっかり立て直して、優勝したヴェルディ川崎と全く同じ48得点、26失点で2位と躍進します。小島は44試合中の41試合に出場して、ベルマーレ旋風と呼ばれた快進撃を支えました。
同年は天皇杯も制して、チーム初タイトルを奪うと、1995年に日本代表初選出を果たします。そして、アンブロカップのブラジル戦で代表デビューを迎えました。ロベルト・カルロス、ドゥンガ、ジーニョ、レオナルド、リバウドという超本気メンバーの王者は3-0と日本を一蹴して優勝を飾ります。小島はフル出場して左手小指を骨折まで負いましたが、ピンチの場面に中盤まで飛び出して、ショルダーチャージでジュニーニョに競り勝つなど見せ場を作りました。
フランスW杯には日本代表に選出され、精神的支柱として働く
1997年11月、日本は念願のW杯初出場を決定します。そして、小島伸幸自身も本戦最終メンバーには、川口能活、楢崎正剛に続く第3GKとして選出されました。それまで日本代表としてピッチに立ったのはわずか4試合でありましたが、精神的支柱として期待されます。特に、主力メンバーだった三浦和良、北澤豪が急転直下で最終メンバー漏れして動揺する中、最年長、ムードメーカーとしてチームをまとめました。日本にとっての初舞台は、無念の3戦全敗を喫してグループリーグで姿を消します。小島は一度もピッチに立つことはありませんでした。
アビスパ福岡で正GKを務めるも、3年目にJ2降格となり退団
1999年から、メインスポンサーのフジタが撤退したこともあって、チームは変革の危機を迎えます。多くの主力が退団し、小島伸幸もその波に飲まれました。同年からは、Jリーグ昇格して3年目を迎えるアビスパ福岡へ移籍します。移籍1年目は、前期11位、後期15位の総合14位と下位に低迷しました。2000年は、チーム全体でフィジカルのレベルアップを徹底すると、前期こそ14位でしたが、後期は6位と過去最高位を記録します。小島は2年連続フル出場で、守備陣を牽引しました。しかし、2001年は年間総合15位でJ2降格が決まります。自身も8試合と出場機会を大きく減らし、チームを去りました。
Jリーグから離れるも、ザスパ草津のJFL、J2昇格に貢献して引退
その後、35歳を超えるベテランでありながら、Jリーグでのプレーを模索します。しかしFC東京のテストをパスできず、ザスパ草津を新天地としました。Jリーグを頂点とするピラミッドで、かなり下に位置する都道府県リーグ・群馬県1部でリスタートを切ります。年齢的にも兼任コーチとして、チームの成長に一役買いました。
小島伸幸だけではなく、元Jリーガーもチームに加わると、年々実力を発揮します。2002年に群馬県1部、2003年には関東2部でも優勝を遂げて、2004年からはJFLを主戦場とするまでチームを押し上げました。そしてさらなる上のJ2昇格を目指します。同年は全30試合中26試合に出場するなど、JFL3位、天皇杯ベスト8に大きく貢献しました。本来は2位まではJ2昇格ラインでしたが、2位のHonda FCと勝ち点、得失点差が同じであったため、J2昇格が承認されます。まさに年々トントン拍子で所属先をあげるという快挙を成し遂げました。
J2での戦いは試合数も年間44試合と一気に増えます。それでも小島は11月にJ2最年長出場記録を更新するなど、23試合に出場しました。さすがにJ2レベルは高く、初年度は12チーム中の最下位に終わります。そして、チームの躍進に大きく貢献してきましたが、40歳の誕生日を迎えて現役引退を発表しました。
引退後はJFAアンバサダーに就任して、サッカー普及に注力中
現役引退後は、ザスパ草津(現在のザスパクサツ群馬)のアドバイザースタッフをしつつ、指導者や解説者として活動しています。2008年には日本大学サッカー部コーチ、2015年からはアルテリーヴォ和歌山のアドバイザーにも就任しました。GKならではの解説も好評で、2008年にはJFAアンバサダーとしてサッカーの普及活動にも力を入れています。