今井雄太郎について
名前 | 今井雄太郎 |
---|---|
生年月日 | 1949年8月4日 |
国 | 日本 |
出身 | 新潟県長岡市 |
プロフィール | 新潟鉄道管理局を経て阪急に入団。プロ8年目、昭和53年に開花した“遅咲き”。59年34歳で自己最多の21勝をあげ、最多勝と防御率1位を獲得。平成3年ダイエーに移籍し、5月対オリックス戦で41歳9ケ月にして白星をあげた(40歳代史上3人目,41年ぶり)。同年引退。実働21年、429試合登板、通算130勝112敗、防御率4.28。のち野球解説者
|
アガリ症が災いし、プロ入り後に伸び悩む
後に“酒仙投手”という愛称で知られることになる今井雄太郎はプロ入り前から社会人野球で活躍していた投手でした。新潟鉄道管理局のエースだった今井は打たせて取る技巧派なピッチングで頭角を現し、その投球がプロのスカウトの目に留まりました。そして、70年の秋に行われたドラフト会議で、今井は阪急ブレーブスに2位指名を受けて入団。晴れてプロ野球選手の仲間入りを果たしました。
背番号も「21」と若い番号が与えられたように阪急も今井の即戦力度合いに期待し、山田久志、足立光宏らとともに主戦投手として起用することをもくろんでいました。しかし、今井はルーキーイヤーの71年、登板数はわずか1試合のみ。開幕間もない4月にロッテ戦で投げると、わずか2アウトを取るまでの間に5安打を許し、5失点。これでは到底使い物にならないとして、間もなく二軍に落とされたのも無理はありませんでした。
その後も今井は期待に応えることができず、翌年に初勝利を挙げましたが、登板はわずか11試合、先発は1度きりでした。73年から75年には毎年6~8試合の登板しか許されず、一度も主戦投手になることはありませんでした。
首脳陣からしたら、今井の球は一級品。お世辞にもキレイとは言えないフォームから投げられる球は打者からしたら打ちづらいもので、打たせて取るピッチングをするには最適なもの。実際にブルペンではそうした球が投げられていました。
しかし、いざ一軍の試合になるとその力は全くと言っていいほど発揮できず。元来のあがり症な性格が災いしてしまい、打ちづらいと称されたクセ球は簡単に打てるようになってしまい、打者からしたら甘いボールばかり。結果的にプロ入り5年目までにわずか2勝しか挙げられずにいました。
酒を飲んで変身!? 完全試合投手に
即戦力投手としての期待を長年裏切り続けた今井雄太郎。実績を挙げられない投手をいつまでも雇うわけがなく、年々立場は厳しいものに。戦力外通告もちらつき始めた今井ですが、そんな追い込まれた状況の中で投手コーチの梶本隆夫は今井のある点に注目しました。
それは今井の酒好きな性格。酒を飲むと今井は抑圧された状態から解放されてのびのびとするという性格を見抜き、プレッシャーを感じないようになります。そんな今井の性格に目を付けた梶本は78年、今井の登板直前に酒を飲ませるという荒療治に出ました。
プロの選手として酒を飲んでベストパフォーマンスが発揮できるとは到底思えませんが、今井は飲酒して迎えたこの試合でなんと7回1/3を1失点と好投。後にこの試合が今井にとって最後のチャンスとなることが決まっていて、二軍落ちを免れるとともに酒仙投手として知られるようになります。
この好投以来、首脳陣は今井に酒を飲ませてから登板させるのを常用。今井自身は酒が好きとはいえプレー前に飲むのは苦しくて仕方がなかったと振り返るようにイヤイヤ飲んでいたと言いますが、この頃から高騰が増えたのは確か。酒の力を借りてここまで大成する投手も珍しいとニュースでも話題になりました。
そして、今井のベストパフォーマンスと言われているのがこの年の8月31日のロッテ戦。この頃になると今井は酒を飲まずに登板しても大丈夫になり、素面の状態でマウンドへ。すると持ち前のシュートとシンカーが冴えてロッテ打線はキリキリ舞い。なんと今井はこの試合でプロ野球史上14人目となる完全試合を達成。指名打者制になってからは唯一の達成記録としても知られています。
結局、78年の今井は13勝4敗と言う好成績をマーク。阪急のリーグ優勝、そして日本一に大きく貢献しました。
酒にまつわるエピソード
ノミの心臓と揶揄された今井雄太郎でしたが、78年についにブレイク。これを1年だけの確変にしないとばかりに、今井はこの頃から奮起。山田久志や佐藤義則らとともに上田利治監督時代の阪急黄金期を支えるようになります。
翌79年にも今井は11勝を挙げ、2年後の81年にはなんと231イニングを投げるというイニングイーターぶりを発揮。負け数も15とリーグ最多となりましたが、一方で勝ち星もリーグ最多の19勝。念願の自身初タイトルを獲得しました。
活躍しだして以降、阪急の主力となった今井ですが、酒好きな性格は相変わらず。この頃の阪急投手陣には北国出身者が多く、まとまって飲みに行くのが常でしたが、新潟出身の今井もこの頃から仲間入り。飲み会が始まると当初は1年先輩の山田を立てる今井でしたが、酒がだんだん進むと大きくなる性格なのか、次第に山田に絡みだすように。
どうやら、完全試合達成が今井の誇りだったようで「山田さん、アンタ完全試合やったことありますか?」と絡むのが常に。普通に考えたら激怒されてもおかしくない絡み酒ですが、阪急投手陣は寛容で、山田自身も笑い話にするほど。後輩選手たちは今井がこうして絡みだしたら、飲み会はお開きにするという暗黙のルールができたといいます。
現役引退後はタレントに転身
阪急投手陣の大黒柱となった今井雄太郎。84年には自身のキャリアハイとなった21勝を挙げて最多勝を獲得。さらにチームもリーグ優勝に輝くなど最高のシーズンを迎えました。
しかし、この頃ですでに35歳を迎えていた今井は次第に衰えが隠せなくなります。技巧は投手だけに技術で交わすピッチングを見せますが、親会社が阪急からオリックスに替わるあたりからとうとう先発ローテーションから外れるように。中継ぎ、リリーフに回ります。愛されキャラだった今井は後輩たちからも慕われ、ブルペンでは殿と呼ばれるほどでした。
ですが、さすがに成績を落とした高年俸のベテラン投手はもういらないとばかりに、上田利治監督が勇退した90年オフ、今井は矢野実とのトレードで福岡ダイエーホークス(現福岡ソフトバンクホークス)へトレード。心機一転、復活を目指しましたが、衰えは隠せないまま。結局シーズンでは1勝しか挙げられず、現役を去ることになりました。
現役引退後の今井は野球解説をはじめ、その人柄を生かして福岡県を拠点としたローカルタレントに転身。九州弁を流ちょうに扱うキャラクターでお茶の間の人気者になりました。